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vol.44 二つの理由

2016/02/01

 私がこの道の指導者で一生あり続けたいと思う大きな理由、それは二つある。
 一つは、大学少林寺拳法部時代に遭遇したある事件。いや、事件と呼ぶのは少し大げさかもしれない。しかし、私にとってはそう表現したくなるほど衝撃的な出来事であった。
 1970年代の半ば、まだ本山・本部の職員の先生方が山門衆と呼ばれていたころの話。学生合宿の折、山門衆の一人が、本堂の祭壇上で開祖にこっぴどく叱責を受けた。合宿に参加している大勢の学生たちの目の前でだ。
 そのときの若い山門衆の堂々とした態度に衝撃を受けた。普通、偉い人に叱られれば、ほとんどの者は首をすくめ小さくなるもの。ところが若い山門衆は、片膝をついた蹲そん踞きょの姿勢で、やや伏せ目がちながら下を向くわけでなく背筋を伸ばし、「はっ、申し訳ありません」。その姿が、まるで時代劇ドラマ「水戸黄門」の〝助さん、格さん〟を連想させた。いや、格好いい、見事だ。それこそ私の求めていたものをそこに見た。
 私は父から常に「へいこらするな」という教育を受けていた。つまり、人に媚びるなということだ。「礼儀」と「媚」は別のもの。「媚を売るやつは、場所が変われば人を見下す。そんな手のひらを返す人間には絶対になるな」と。世の風潮として、人前で叱られることは恥と捉われがち。だが、叱られ方によっては逆に格好いいのだ。そんなことを痛感した。
 最近の若者は、「叱られ慣れ」していない。あらゆる面で打たれ弱い。叱られたときに、その内容よりも、「こんな人前で叱られるなんて……」と体面ばかりを気にしてしまう。
 だが、潔く反省する姿を見せれば全然恥ではない。恥ずかしいのは、叱られることではなく、叱られて卑屈になっている姿を晒すことだ。
 きっと山門衆の人たちは、その若い山門衆だけでなく、皆そんな叱られっぷりだったのであろう。技のすばらしさに加えてのそんな凛々しい姿に、自分の選んだこの道は決して間違っていないと確信した瞬間だった。
 そして、もう一つの理由。指導者は、少林寺拳法を職業としてはならないということ。
 私たち指導者は、道院を設立する際に、所得証明を提出することが義務付けられている。それは、きちんと職業を持っていて、少林寺拳法を決して〝メシのタネ〟にしない、ということを証明するため。これは、他武道、他教団の組織には見ることのできない、すばらしいシステムだ。
 我々は、技の指導だけでなく、法話をはじめとして、人生、社会についての教訓なりを拳士たちに話したりする。拳士だけではなく、時として保護者たちにも。
 そんなとき、「話はすばらしい。が、所詮は少林寺拳法屋さん。社会のことなど分かるのか」と思われたらそれまで。しかし、きちんと職業を持ち、その上で時間をつくり、青少年育成や布教に携わっているとなれば、説得力も違ってくる。
 もし、職業にしていいという話にでもなれば、弟子の取り合いにもなりかねないし、何よりも、真の意味での教育は決してできなくなる。だからこそ、入門希望者から電話をもらったときなども、相手の住所を聞き、より近い道院を紹介してあげたりすることもできるのだ。
 この道を歩み続けたいと思う理由を挙げれば、それこそ「教え」を含めてまだまだたくさんある。しかし、この二つこそが、私にとっての最大の思い入れであり、誇りなのである。
(群馬前橋道院 道院長 江原 謙治)