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vol.29 甲斐哲夫 大導師正範士八段 177期生

2013/07/28

開祖が与えてくれた強烈な光(教え)、今度は自分が光を与える存在に
甲斐哲夫 大導師正範士八段 177期生

1940年(昭和15年)4月、大分県生まれ。1960年9月、陸上自衛隊に入隊。63年、別府自衛隊少林寺拳法部に入会。68年8月、転勤で北海道へ移る。71年5月、苫小牧中央道院設立。93(平成5)年、自衛隊を定年で退官後、千歳市環境保全公社に入社、2004年3月の定年まで務める。2010年より名誉本山委員に就任、現在に至る。苫小牧東高校少林寺拳法部監督も務めている。

甲斐哲夫 大導師正範士八段 177期生

開祖と初めてお会いしたときの、いちばん最初の言葉が「続けろよ」でした。そのときの温かな手の感触、今も忘れることができません。「北海道には鉄のカーテンが下りている」と言われ、地理的だけでなく精神的にも距離があった本山と北海道の間を縮めるべく尽力してきました。最初に言われた「続けろよ」を開祖の教えとして、これからも北海道の拳士に続けることの意味を伝えていきたいと思っています。開祖の言葉は時代を超えて今も響き続けています。開祖が与えてくれた強烈な教えというか光を、北海道で生あるかぎり照らし続けていきたい。今度は自分が光を発する存在でありたいと願っています。


続けろよ

私は自衛隊に入ってから少林寺拳法を始めました。それまでは空手をしており二段を持っていました。全国大会に出たこともあります。64年、別府自衛隊に少林寺拳法部が設立され1期生として入会しましたが、まだその時は空手も少林寺拳法も喧嘩のためのものでしかありませんでした。

65年、初段を本山で受験した際、初めて開祖法話を聞きました。それに感動して師である原田四郎准範士六段と仲間4人で、毎月本部武専に通うことになったのです。土曜日の夜10時に関西汽船で別府港を出発して、高松港に到着するのは朝6時、そこから予讃線に乗り1時間くらいで多度津に到着。その夜、高松発10時の船で月曜日の朝6時に別府港に入り、8時半の出勤に間に合うという生活を4年間続けました。しかも武専に加えて鏡開き式や全国指導者講習会と月1回以上、本山に帰っていました。楽しくて充実していましたね。aun_tunagu_vol14_02

ある日、太田達夫大範士九段(故人)のはからいで開祖に紹介されました。太田先生は警察官で、私が自衛官なものですから非常に親切にしていただいていたのです。その時、開祖から言われた一言が「続けろよ」、握られた手の温かな感触は今も忘れることができません。

四段の昇段受験の時には開祖に技を掛けていただきました。掛けられたというかぶん投げられたというか、実際は何が起こったのか分かりませんでしたけど(笑)。後で仲間の中馬拳士に「おい、お前気絶していたよ」と言われました。今でいう巻打首投で、スッと開祖が消えて首を打たれたと思ったら吹っ飛んでいました。「分かっただろう」と開祖に言われても、痛いし訳が分からない。その一言だけでもう開祖はいなくなっていました。

開祖は「袖を捕ってみろ」と言って、袖を捕りに行った時には投げていました。捕らせた時にはすでに次の段階に入っている、そういうことが後になって分かってきました。これが開祖の教え方なんですね。考えさせるという指導法。とにかく痛くても投げられても嬉しかったです。自分から勉強しようと思いましたね。
※写真は1965年頃


北海道と本山の距離を縮める

68年、北海道転属が決まりました。当時は外地に行くような気持ちで本山にも帰れないんだと思いましたが、「北海道武専をつくれ。甲斐、頼むぞ」と言う開祖の言葉を胸に北海道へ行きました。

そして71年、苫小牧中央道院を設立。一時は北千歳自衛隊少林寺拳法部も兼務し、全自衛隊少林寺拳法連盟理事長を務めたこともあります。

苫小牧市はアイスホッケーで有名な地で、少林寺拳法って何?というところからの布教活動は場所探しにも一苦労でした。でも、若かったですし、逆に燃えましたね。ようやくお借りできた最初の修練場所が岩倉組体育館でした。今の岩倉苫小牧市市長のお父様の会社の体育館です。市長とはそうしたご縁があり、地区大会や道院の行事に来てくださるので保護者の方が驚きます。

北海道に来て感じた一番の違いは、香川の本山が遠い存在だったことです。特に精神的に距離がありました。一方、大学で本部合宿を経験した道院長の誕生もあり、意識としてだんだんと本山が近くなってきつつある時期でもありました。その時に、武専をつくりましょうと何人かの道院長に話をぶつけたのです。「武専をやろう。技術向上のためにも必要ですよ」と。そして始まったのが合同練習会です。1年に2〜3回、開祖はその都度、すばらしい先輩指導員を派遣してくれました。本山も近くなってきました。

ついに76年、北海道武専が開校しました。最初は反対する人もあり時間がかかりましたがようやく実現できました。

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開祖と過ごした1週間

北海道武専の開校を受けて、開祖がご家族を伴い来道されました。6月10〜16日の1週間はずっと、私の運転で札幌、小樽、洞爺湖、登別、苫小牧、千歳とまわりました。

本当は、開祖のための運転手つきの特別車と、奥様と現・総裁の乗る乗用車の、2台車を用意していました。ところが千歳空港で出迎えて開祖を車へ誘導しようとすると、「いらん、お前の車に乗る」と言われたのです。あの頃は管長とおよびしており、「いや、管長狭いですから」と言おうと思った時には、すでにご家族3人で後部座席に乗り込んでいました。結局、助手席に西内一千歳道院道院長が乗り、私の運転で道内をまわることになったのです。後部座席の真ん中に大きな開祖が座り、さぞ狭かったことと思います。が、「死ぬときは家族一緒がいい」と開祖は殊の外楽しそうでした。aun_tunagu_vol14_04

小樽では、前方から来た大型トラックを避けて待っていたら、「君のような運転が安全運転だな」とお誉めいただきました。その後なおさら安全運転に気を配りましたね。北海道を離れる直前に開祖は、「甲斐、小樽で君を誉めたのは最後まで君に安全運転をしてもらいたかったからだ」と言って笑っていました。こんな指導方法があるのかと思いましたね。いまだに忘れることのできない教えとして、誉めることの大切さを肝に銘じています。

北海道滞在中は、ホテルに入ると毎夜部屋へ呼ばれ、次の日の打ち合わせ含めてお説教がありました。おかげで気配り気遣いなど多くのことを学んだ幸せな1週間でした。

aun_tunagu_vol14_05別れ際、「武専、頑張れよ」と言われたのが、武専を続けろよと言われた気がして、今も身体が動く限りは続けていく覚悟で頑張っています。

後日、全国指導者講習会で「もう北海道には鉄のカーテンはなくなった」と言ってもらえた時は肩の荷が降りたような気がしました。
※写真上:1976年6月、千歳空港にて開祖一行を迎える。写真中:支笏湖でバーベキュー。写真下:家族と開祖を囲む。左は悦子夫人、開祖の膝の上は息子の貴之さん(現・千歳北陽スポーツ少年団部長)


続けることの意味

開祖から最初に言われた「続けろよ」の5文字を胸にここまできました。「続けろよ」には、開祖の「私の志を伝えていけよ」という願いがあったのだと思います。いつやめようかと考えた時期もありました。今は手術もして身体もあまりよくありませんが、道院で伝えることはもちろん、武専に顔を出すことが志を次へつなげていくことになる、と信じて休まず行っています。煙たがられる存在ではなく、拳士に寄ってきていただけるような年寄りにならなくてはいけない、そのために自分には何ができるのかをいつも考えています。

続けることは簡単そうで難しい。でも、やめずに続けることは自分に克つことなのかもしれませんね。

自衛隊を定年退官後、千歳市環境保全公社に就職したのは少林寺拳法を続けるためです。現役のころから、定年後は5時で帰れるところに就職させてほしいと頼んでいたおかげで、60歳で第二の人生をスタートできました。

道院で拳士から教えられたこともあります。一時期、私は白老道院(現在廃院)にも指導に行っていました。そこで指導を手伝ってくれている幹部拳士が、実は道院後も職場に戻っていたことをまる2年以上知らずにいたことがあります。道院から苫小牧に帰った後、彼の家に電話して奥さんと話をして初めてその事実を知りました。「申し訳ありませんでした。知らずにいろいろと手伝ってもらって」と奥さんに言うと、「いえ、いいんですよ。好きでやってるんですから。主人は帰ったら先生のことばかり話しています」と言われ、頭が下がる思いがしました。その拳士は大企業に勤め、たくさんの部下を抱える管理職です。指導者はこうでなければと思いました。

私は今の自分より少しでもよくなること、それが金剛禅だと思っています。今の自分より少し上を目指して努力し続けること、脱ぎ散らかしていた靴を揃えるようになった、物を投げて置いていたのがそっと置くようになった、そうして少しずつよくなっていく……。開祖はそういう教えを伝え続けろと行ったのではないでしょうか。

開祖の言葉は今も時代を超えて響き続けています。時代を超えても光るその教えを、伝え続けていく存在でありたいと思っています。