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vol.30 濱田宏行 大導師正範士八段 199期生

2013/09/28

命さえあれば必ず立ち直れる、努力あるのみ
濱田宏行 大導師正範士八段 199期生

1943(昭和18)年12月、愛媛県生まれ。1959年、平賀工作所に就職、三菱扶桑勤務などを経て、1971年よりアパートを経営。65年10月、大阪東道院に入門。72年7月、宇和島道院設立。84年、愛媛女子高校の非常勤講師を皮切りに、その後、宇和島市立城東中学校の体育講師や地元中学・高校の少林寺拳法部監督も務める。ほかにも保護司、宇和島市少年補導委員、薬物乱用防止指導員、自治会長、うわつ地域づくり協議会評議員などを務め、地域に根ざした活動を展開している。愛媛県教区教区長、羅漢圧法・締法・活法・整法専門委員会の委員長などを歴任し、2014年より名誉本山委員に就任。

濱田宏行 大導師正範士八段 199期生

「絶対に死ぬまでは負けたんでない。命さえあればどんなことがあってもいつかは立ち直れる」、この言葉を座右の銘としてきました。自宅が火事で全焼したときもこれを支えに乗り越えました。少林寺拳法で得た力をいかに社会に生かすのかが大切です。少林寺拳法の段位が通用するのは組織内だけです。井の中の蛙にならないよう、少年補導委員、保護司、自治会長、講演活動なども積極的に引き受け、他人に喜んでもらえることが自分の喜びとなるよう努力してきました。私は少林寺拳法と出会って人生が180度変わりました。この教えを広めることが生きがい、人助けです。これからも精進してまいります。


3ヶ月通ってようやく許された入門

入門したのは22歳の時ですが、少林寺拳法との出会いは15歳の時です。実家が下宿屋をしており、下宿人の中に少林寺拳法三段の香川県の人がいました。その頃、私は空手をやっていたのですが、殴りに行ったら簡単に投げられてしまったのです。地面に倒されたと思ったら肩に激痛が走りました。教えてほしいと頼み込んだのですが、「門外秘」と取り合ってもらえませんでした。

その後、大阪に引っ越してからボクシングを始めました。ところが身体を壊してしまい、その時に友人から誘われて行ったのが、少林寺拳法の大阪東道院です。砂川哲男道院長に技を掛けられ、あの時と同じだと思いました。掛けられた技は後に裏固と分かりました。

しかし、入門が許されるまで3ヶ月かかりました。1ヶ月は見学に通い、次は雑巾がけまで手伝い、3ヶ月間、一日も休まず通いました。一番最初に行って作務をし、終わった後も作務をして最後に帰るのが私でした。おかげで入門した時には、基本諸法や技を習わなくてもできて、皆がびっくりしていました。まさに見習い、見て習うという言葉の通りです。

入門してますますのめり込みました。週2回ではもの足りず、近隣の道院にも練習に行くほどでした。台風で電車が止まった時はバイクに乗って道場に行きました。誰も来ていませんでしたが、砂川先生が来てくれて、中華料理を食べさせてもらい帰った思い出があります。先生からは「濱田君が来ているかもしれないと思って行ったら、本当に来ていた」と未だに言われます。

ただ、その頃の私は、教えは横に置いておき単に拳技だけでした。金剛禅の教えは先生から嫌というほど毎回の法話で聞かされていましたが、練習時間が少なくなるのが気になってイライラしていました。しかし、それでも先生の言葉はしっかりと心に残っているものですね。その後、自分の間違いに気付いたとき、先生の言葉がよみがえりました。私を変えてくれたのは、開祖はもちろんのこと、「お前のその力を他人のために使え」と言われた恩師・砂川先生のおかげです。法話が長く足がしびれて腹が立ったけれども、それがあったから今の私があるのです。

井の中の蛙ではいけない

道院を設立した当初の私は、教えそっちのけで拳技だけでした。練習は厳しいなんてものではなくて、喧嘩というくらい激しいものでした。私は空手経験者で、プロボクサーでもありましたから、ど突き合いには慣れているんです。それで素人に対するのですから、相手は怪我しますよね。一人二人と門下生が減っていき、とうとうゼロになってしまいました。毎日一人で雑巾掛けし、祭壇の前で座禅を組み、来ない人を待つという状況が半年くらい続きました。

そんな時に本山の指導者講習会で開祖の話を聞き、自分の指導の間違いに気がついたのです。そこでは浦田武尚代表(当時、三崎道院道院長)との出会いもありました。

宇和島に帰ると早速、読本を手にし、鎮魂行、基本、学科と科目表通りにやることにしました。すると、門下生が30人、50人、100人、150人とどんどん増えていったんです。16坪の道場は手狭になり、65坪の道場を新築しました。

開祖が言っている通りにやれば間違いがないと身にしみて感じました。少林寺拳法は単なる武道やスポーツではない、それを苦い経験から学んだのです。

1984年、愛媛女子高校に少林寺拳法が正課の授業として取り入れられたことは、その後の活動に大きな影響を与えました。これは校長に直談判して実現したものです。道場に見にきてもらい、逆小手も掛けて差し上げました。特に鎮魂行にびっくりされ、「本校の教育理念と少林寺拳法の教えが一致する」となったのです。このことがテレビ、新聞、ラジオなどで紹介されると、一気に少林寺拳法の名前が広まりました。

自分自身が積極的に地域活動に取り組むことはもちろんのこと、少林寺拳法をしている子は礼儀正しく言葉遣いがよいと評判になると、学校の先生や周りの方々も興味を示してくれます。教育委員会からも声が掛かり、次々と役員や講演の依頼もくるようになりました。公民館活動で頼まれて体操教室や講座も行ってきました。少年補導委員、保護司も引き受けています。

道院で学んだ事をいかに実社会で生かすか、地域にどれだけ貢献できるかが大切だと思っています。井の中の蛙ではいけないのです。思い立ったら即行動、人に喜んでもらうにはどうしたらいいかを考え行動してきました。
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南予連合、すばらしい仲間

南予連合は、指導者講習会で浦田代表にお会いした際、「南予(南伊予。愛媛県南部)に少林寺拳法を広めよう」と呼びかけられたのが始まりです。連合と言ってもスタートは浦田代表、小野芳洪四国地区総代(伊予津島道院道院長)と私の3人だけですが、南予連合結成は開祖にも誉められましたね。

aun_tunagu_vol15_03南予連合の連携はとても強く、助け合って道院を増やしていきました。3人が組んで積極的に活動を展開し、他団体からも一目置かれる存在でした。これは89年、南予連合の忘年会の写真です。また、南予連合はインドネシア連盟との交流も盛んで、よく研修に行きました。上から2つ目以降の写真は91年に南予連合でインドネシアへ行った時のものです。

なんと言っても少林寺拳法は仲間がすばらしい、だから続けてこられたと思います。私は武専も一日も休んだことがありません。そうそうたる先生方に教えていただきました。また、開祖が壇上で技を説明されるのをしっかり見ていました。開祖の技は別格ですね。体捌き足捌きなんてなくて、握ったらもう飛んでいったという感覚でしたから。aun_tunagu_vol15_04

しかし、開祖の魅力はそれ以上に温かみというか、一緒にいたら癒されるところにありました。本山はまさに充電の場でした。バッテリーが切れそうになったら本山に来て、開祖の顔見て話聞いて、よしやるぞ、と気力を充実させて帰る、そんな感じでした。私のバッテリーはボロなので、1ヶ月しかもたないのです。ですから毎月充電に本山に行かなければなりません、バッテリーがボロでよかったです(笑)。

aun_tunagu_vol15_05宇和島から本山へ車で片道7時間、高速道路ができてからは3時間半で行けるようになりましたが、休まず通っています。開祖や偉い先生方の足元にも及びませんが、私に会ったことで元気になって帰る人が一人でもいたらと思うからです。自分なりのやり方で人を喜ばせることができたら何よりの喜びです。

家族の絆、苦しい時を共に乗り越えて

私の一番の理解者は家内です。家内とはお見合いで初めて会って、その月の末には結婚していました。つまり2回目に会ったときは結婚式(笑)。仲が良くて喧嘩なんてしたことほとんどありません。夫婦間でも、教典の相親しみ相援け相譲りの精神で、いつも感謝の気持ちです。私は家内を絶対的に信頼し、稼いだお金は全部渡しています。そのお金をどう使おうが、一切文句を言った事はありません。

門下生がいなくなった年、指導者講習会の案内を見つけてそっとお金を渡してくれたのは家内でした。フランスの国際大会へも、私が言い出すより先に「行くんでしょ」とお金を渡してくれました。決して裕福な暮らしではないのに、うまくやりくりして私の好きなようにやらせてくれるのです。頭があがりません。

自宅が火事で全焼した時も、家内がちゃんと蓄えていてくれたおかげで助かりました。もちろん、保険や蓄えだけではとても足りませんが、子供たちも「これを使って」と自分たちの預金を出してくれました。また、全国の少林寺拳法の仲間、地域の方たちからもお見舞いや様々なご支援をいただきました。

中でも、私を兄弟子と慕ってくれている井戸家正旺東吉野道院道院長が家族全員で駆けつけてくれたこと、そのご恩は忘れたことはありません。寝具や衣類を車に積んで、奈良から一睡もせずに駆けつけてくれたんです。何もかも失って心細い思いをしていた私たち家族にとって、井戸家道院長ご家族の行動がどれだけありがたく心強く感じたか分かりません。また、近所の方達も毎日、食事を持ってきてくれました。しかもそれを何ヶ月も続けてくれたんです。他にもいろいろとお世話になりました。皆さんのおかげで立ち直れたんです。

しかし、この火事のショックで家内はパニック症候群になり、睡眠障害や味覚障害で約2年、苦しい思いをしました。そりゃそうですよね、大金かけてリフォームしたばかりの家が目の前で一瞬にして灰になったのですから。ご飯を食べられないようになり、肋骨が浮き上がるほど痩せてしまった姿を鏡で見て、家内は泣いていました。でも自分は食べられなくても料理はつくってくれるんです。食べさせようと思って一生懸命つくってくれる、その気持ちが分かるから私も子供もみんな黙って食べました。

ある日、吸い込まれるようにケーキ屋に入り、ケーキを買って帰ったことがあります。最初は食べないと言っていた家内でしたが、あなたが買ってきてくれたからと一口食べ、「おいしい」と言ったんです。胸が詰まりました。まだ味覚障害で苦しんでいる家内が、何を食べても砂をかんでいる状態のはずなのにおいしいって……。辛いのは私ではない、本人です。家内を私がかばってやらなかったらどうする、一番辛い時に身近にいて助けるのが夫であり、家族です。夫婦とはそういうものなのです。

そんな私たち夫婦を見ているからか、子供たちは私に口答えしたことは一度もありません。兄弟3人仲いいですよ。家内に対しても一生懸命尽くしてくれます。それが親子ですよね。

これが金剛禅だと思っています。私の家族は皆、拳士で有段者です。今は家内の味覚障害も治り、おいしい料理をつくってくれています。

実社会で生きる少林寺拳法

私は少林寺拳法のおかげで180度人生が変わりました。少林寺拳法あっての自分だと思っています。まさに易筋行ですよね。

今でこそ授業や講演などで話をさせていただいていますが、以前は人前で話すことなんてできませんでした。ちょっと挨拶するだけでも、あの、その、と話すことができずに10分間突っ立って、脂汗をかいて引っ込んだくらいの男です。講演を引き受けるようになったのも、家内が背中を押してくれたからです。道院で偉そうに話すのに、せっかくの依頼を引き受けなくてどうするのと。

初めて武専で講義した時の事は今でも覚えています。熊本に派遣されたのですが、その時は1時間、ずーっと下向いたまま原稿を読みました。1回も顔を上げずに……。ところが、午後の実技は人が変わったように自信満々で指導しましたので、あまりのギャップに拳士の皆さんびっくりされたのではないでしょうか(笑)。

数々の失敗を乗り越え、今では原稿なしで何時間でも話せるようになりました。場数と経験です。

学校の授業で生徒たちは皆、真剣に聞いてくれます。先生方が不思議がるくらい、私の授業だけはじーっと静かに聞くのです。時に釈尊のことなどを分かりやすく話すなど、学校の先生が教えてくれないことを教えるものですから生徒が食いついてくるんですね。

何事も努力あるのみ。私は努力という言葉が好きです。頑張れは嫌い。「お前よう頑張っとるな。でも、何か足りんと思わんか。努力や。もうちょっとなんとかならんか」って言います。

私は努力してきました。うまくいってるようにみえる裏には地道な積み重ねがあるんです。「絶対に死ぬまでは負けたんでない。命さえあればどんなことがあってもいつかは立ち直れる」、長い人生はいいことばかりではありません。どちらかというと苦労のほうが多いかもしれません。でも、生きている間はなんとかなる、生きていたら立ち直れるんです。

そして、人に喜んでもらえることをして、相手に喜んでもらえたことを自分の喜びとすることが大切だと思っています。これが心豊かな人生を築く極意。生きている間に徳を積みたいと思っています。