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vol.31 後藤昭一 大導師正範士八段 151期生

2013/11/28

技の中に真理がある。努力と工夫が人を変えていく
後藤昭一 大導師正範士八段 151期生

1942(昭和17)年2月、岐阜県生まれ。1967年、近畿大学法学部卒業後、地元の製壜会社に入社。48歳の準定年制でゆとりの時間のとれる会社に転職、90年まで勤める。61年、近畿大学少林寺拳法部に入部。76年、加藤清美前道院長より大垣道院を引き継ぐ。本山・本部委員をはじめ多くの役職を歴任し、2010(平成22)年より名誉本山委員に就任、現在に至る。

後藤昭一 大導師正範士八段 151期生

開祖は単なる武道家ではなく、宗教家、事業家としても一流だったと思います。よく努力と工夫に勝るものはない、だから600余りの技をつくったんだとおっしゃっていました。喧嘩に勝つだけなら転身蹴を一つ覚えておけばよくて、努力するための手段として少林寺拳法をつくられたのです。開祖は「一所懸命」の意味を教えてくれました。しかも、“少林寺拳道”ではなくて“少林寺拳法”、森羅万象を超越した法の下、私たちは修行しています。矜持を持って金剛禅布教に努めてまいりました。私は技の中に真理があると思っています。心外無法です。研鑽こそが人を少しずつでも変えていく。これからも捲まず撓まず精進し、納得のいく人生にしたいと思います。

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大学合宿と開祖の思い出

少林寺拳法を始めたのは、近畿大学に入学して最初の夏休みが終わった1960年9月です。「少林寺拳法の同好会ができるそうだ」と同級生の磯崎誓夫から声をかけられ、数年前に週刊誌で見た合掌礼をする高校生の姿を思い出しました。さっそく故・奥村正千代少法師大範士九段が道院長の大阪大正道院に出かけました。それからは週3回程、電車で1時間かけて道院に稽古に行き、さらに、大学のすぐそばの私の下宿でも畳がすり切れるくらい練習しました。下宿から出て行けと言われたくらいです(笑)。ただ、そのころは教えも思想も何もなく、何か部活動をしていた方がいいだろうという軽い気持ちでした。

aun_tunagu_vol16_0361年、近畿大学少林寺拳法同好会が正式認証されるのを待って、晴れて入門となりました。開祖に初めてお会いしたのは、その年の12月6日、京都別院演武祭です。その京都別院のこけら落としで私たちの大学は団体演武を行いました。開祖からは、「ああやってバシバシ音がするなら、蹴りとしてはそこそこいいじゃないか」と言われた記憶があります。なお、その演武祭では開祖の説法と高弟の先生方も演武をされ、それを見て入門されたのが牧野清名誉本山委員(志をつなぐvol.5)だそうです。

本山には毎年、大学合宿で帰っていました。大学の講義ではノートもとったこともないのに、そこではいくつかのメモをとっていました。走り書きのひらがなで開祖のおっしゃる言葉を書いてあるわけですが、指導者になって見返すと改めて理解できることや発見することがたくさんあります。

大学合宿では、開祖は旧道場の壇上で長いときは朝8時半から12時過ぎまで話をされました。消防署の12時のサイレンを聞いて「お、もう12時かのう」とおっしゃってから30分くらいは話が続きましたから。それでも開祖の話はあまり眠たくはなりませんでしたね。内容が多岐に渡り、注意の仕方やアドバイスのタイミングなども絶妙でした。まさに?啄同時でした。

技もかけていただきました。今から思うと片胸落だったと思いますが、開祖はほとんど動きがなかったです。その頃の私は生意気ざかりでしたから、皆の前で、掛けていみいという感じで掴みにいったんです。そうしたらズドーンと落とされました。片膝つくくらい痛いんです。「分かったか」と言われ、「はい、分かりました!」とそんな記憶がありますね。

夜は宿の夕食が終わると5、6人で開祖の家に稽古に行きました。「おう入れ」って言われて上がると奥様がコーヒーを出してくださいました。そこでも様々なことを教えていただきました。ご自宅にはたくさんの本があり、ものすごい読書家だなと思いました。また、開祖の話の中には喧嘩の極意もあり、血気盛んな若者を大いに満足させてくれるものでした。生きるか死ぬかの社会の中で、開祖は相当場数を踏んでいたと思いますね。

その頃の開祖は、近寄りがたい偉大な指導者というよりももう少し身近な、私たちの頭領という存在でした。


会社と家族の協力を得て

しかし、当時の私が少林寺拳法漬けだったかというとそうでもなく、飲む打つなんとかの無頼生活でした。なにしろ大学卒業に7年かかり、最後の1年は自宅から通っていました。

ある日、大垣駅で下車すると目の前に少林寺拳法入門案内のポスターがありました。その時少拳士二段で、「俺を差し置いてやっとるやつがいる。いっぺんのぞいてやれ」と訪ねていったのです。そこで加藤清美先生と巡り会い、そのまま籍を置くことになりました。道院では大垣警察署と一緒に護身術の公開練習をするなど、少林寺拳法の凄さと教義を理解してもらうのに、加藤先生はじめ皆一丸となって取り組んでいました。先生とは今でもお付き合いをさせていただいています。

それから約10年後、事情があって加藤先生から大垣道院を引き継ぐことになりました。少林寺拳法を辞めようと思ったことは一度もありませんでしたが、道院長になろうとまでは思ってもいませんでした。幸いにして会社や家族の理解を得られ、現在に至っています。

私が大学卒業後に就職した地元の製壜会社は、経営方針でスポーツを奨励していました。社長が剣道をしていたこともあり、特に剣道は盛んで、実業団で3回日本一、剣道部員は優先的に採用していました。少林寺拳法で入ったのは私が初めてです。その後、沖田という京都の道院出身の後輩が入ったことを人事部から知らされ、一緒に道院に稽古に通うようになりました。

aun_tunagu_vol16_04ある時、社長の剣道八段合格祝いが行われることになり、少林寺拳法も何かやってくれないかと依頼がありました。それなら、と皮のなめし胴を衣の下に隠し着けて沖田と演武を披露することにしました。当時はテレビもなく、皆、少林寺拳法を初めて見たと思います。ババーンと蹴って、投げる、その迫力に、剣道部員も他の人も度肝を抜かれていました。

明くる日社長が私のところにやってきて、「後藤君やったかな。すごいわ、あれは。皆に広めよう」と言われました。それから私が監督を務めていた岐阜大学少林寺拳法部の合宿に会社の剣道場を使わせていただいたり、「地域で活躍しているから置いてやれ」と九州や東京の営業所にも出されず済んだり、ずいぶん便宜を図ってくださいました。1979年の第5次訪中の時も1週間出張扱いにしてくれ、金一封までいただきました。この時の訪中は、週刊誌「サンデー毎日」の巻頭グラビアに掲載されました(右写真)。本当に、私は運がよかったと思っています。


一流の人間に

開祖は単なる武道家ではなく、宗教家、事業家としても一流だったと思います。少林寺拳法というネーミングもよかったと思います。道場ではなく道院と響きも神秘的で、紹介者がないと入門もさせてくれない、秘伝というのも開祖の戦略だったと思います。

aun_tunagu_vol16_05開祖は「いいか、私たちは“少林寺拳法”だ。“少林寺拳道”ではない。法というのは森羅万象を超越したもの。それを私たちは修行しているのだから、勝ち負けにくよくよするなよ。足が1メートル上がった、なんてつまらないことじゃないか」と再三話されていました。学生時代にそれを聞き、拳拳服庸して、矜持を持って金剛禅布教に努めてまいりました。

しかし、そう言っても喧嘩をしてくると、開祖は「勝ったか?」と聞きましたからね(笑)。開祖のことは通り一遍では語り尽くせません。決して負けていけないとは凄いことなのです。開祖は何をやっても絵になりました。多くの人が無意識にその生き様に惹き付けられたのだと思います。

aun_tunagu_vol16_06それから、開祖はものすごく繊細で気遣い細やかな方でした。昔は学生合宿の時にお手伝いをしており、夜、允可状に公印を私が何も考えずにポンポン押していると、「君は100名分押すか分からんが、もらう方は一人だよ。定規をあてて真心込めて押してやれ」と言われました。こたえましたね。よく見てらっしゃると思いました。常々「小さなことをできないのに大きなことができるか」と話されていました。また、私がメモした開祖の言葉に「それ恕か」というのも残っています。論語の「それ恕か。己の欲せざる所、人に施すことなかれ」です。指導者として人に見られることを意識して身ぎれいにすることはもちろん、人の質に目を向け、人間的成長を課題としてきました。
※写真上:1989(平成元)年、第一回岐阜県大会。故・田口副太郎岐阜県少林寺拳法連盟会長と宗由貴少林寺拳法グループ総裁。初めて岐阜県に総裁をお迎えし、1200人が集まった。
※写真下:2005年、門下生とアメリカにて

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努力と工夫に勝るものはない

鎮魂行を見た他武道の友達から「かっこいい。うらやましい」と言われたことがあります。しばらくするとその友達も、他武道の指導ですが「瞑目」と言って行っていましたね。あらためて開祖のつくったこの金剛禅の修行の在り方はすごいと思いました。まさにコロンブスの卵。合掌礼も教典も、科目表にしても組手主体の修練にしても、誰が思いつけたでしょうか。修練をする中で、コミュニケーションの取り方や相互扶助の精神を培っていく、すごいことだと思います。開祖は常に時流を読み、10年先を見ていたと思います。

歩歩是道場です。開祖の生き様や言葉が、私の人生の節目節目に影響してきたと感じます。地域社会でも会社でもそこそこ名前を覚えていただけるようになったのは、少林寺拳法を続けてきたおかげです。写真は上が2001年4月に大垣市教育功労賞を、下が2007年8月に岐阜県教育功労賞をいただいた時のものです。aun_tunagu_vol16_08

私は技の中に真理があると思っています。そして、工夫と研鑽こそが人を少しずつでも変えていくと思っています。

自戒を込めて思うのですが、今は指導者が教えすぎる気がします。角度が悪いとか、ここを落とせとか、足の位置とか……。振り返って考えると高弟の先生方からは一回もそんな説明を受けた事がないことに気付きました。じーっと見ていて、だめだと言われるだけ。自分で考えよということです。

いい先生になろうとして、あれこれ教えて、返ってその優しさが継続力を無くしてしまうのではと思います。また、教える側にも、おれはできる、いいかっこをしたいというのが潜在的にあるのではないでしょうか。昔の先生方はそこをぐっとこらえて、やり直してこいと言える厳しさがあったと思います。

私は努力がすべてを解決してくれると思っています。努力して報われなくても人生に納得がいく。鎮魂行で初めは意味が分からなくても読んでいるうちに分かってくるようになる、技もコツコツコツコツ修練を重ねていくと、自然と努力できる人間になれる。人の痛みも分かるようになる。これからも精進し続けたいと思っています。