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vol.32 松田欣一郎 大導師大範士八段 148期生

2014/01/28

何事も原点に帰る、みんなが幸せになればいいんですよ
松田欣一郎 大導師大範士八段 148期生

1931(昭和6)年9月、台湾生まれ。57年、早稲田大学法学部を卒業後、日東物産商事㈱に入社。貿易会社に勤める。69年、ダン化工㈱取締役就任。その後、三ツ矢観光自動車会社の顧問、株式会社頭久保東京支店に勤務を経て、92年9月、金剛禅総本山少林寺に入所し、東京別院別院長を務め、2002(平成13)年3月まで勤務する。61年、東京道院に入門。68年、山ノ手道院設立(現在、廃院)。早稲田大学、富士短期大学の少林寺拳法部監督、国際武道大学少林寺拳法部監督・客員教授他、多くの役職を歴任し、07年、名誉本山委員に就任、現在に至る。

松田欣一郎 大導師大範士八段 148期生

何事も迷ったときは原点に帰ること、すなわち基本に戻ることを考えて実践してまいりました。そして、「Why? What to do? How to do? For what?」なぜ?何をすべきか?いかにすべきか?その理由は?を勘案して、これを基準にして実行してまいりました。その根本には、開祖の「逃げるな、忘れろ、楽しめ」と、山本五十六の「やってみて、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ」という言葉がありました。教える立場になって、技だけ一生懸命ではだめだと気付きました。開祖が何を考えたのか、金剛禅の原点に帰らなくては。半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを、本当にそのとおりだと思います。みんなが幸せになればいいんですよ。技もそう。


力で圧倒され、教えに感銘を受け

私が入門したのは30歳になる直前です。大屋昭夫先生(「志をつなぐ」vol.3参照)から故・内山滋先生を紹介されたのがきっかけでした。大屋先生は私と同じく台湾生まれ、小中学校と4年先輩で、少林寺拳法も4年先輩なんですよ。縁ですね。

内山先生は優しい笑顔で、少林寺拳法の本質や合掌礼のこと、理想境建設という大きな目的のことなどいろいろお話されました。勝ち負けや強い弱いとかの次元ではない、社会に少しでも貢献できる社会の指導者をつくるものであるとのお話に深く感動しました。

大屋先生が、私が早稲田大学でウェイトリフティング部の副将をしていたことをお話されると、内山先生は「ちょっと私の手首を掴んでごらん」とおっしゃり、私に向かって手を差し出されました。その時、私は体重80キロ、左右の握力は72キロ、卒業後も120キロのバーベルを家におき身体を鍛えていましたので、力にはかなり自信がありました。ところが、掴んだ瞬間にひっくり返されてしまったのです。油断していたのだと思いもう一度お願いしましたが、結果は同じでした。三度目には、ただひっくり返されるだけではなく、裏固めで固められ、うつぶせのまま身動きができなくなってしまいました。小柄な先生にものの見事にねじ伏せられ、技は力ではないと納得したのです。

aun_tunagu_vol17_02この後、道場で拳士の皆さんが生き生きと楽しそうに練習しているのに接し、驚くとともに感心しました。先生の人柄といい技術といい、「これだ」と感じた次第です。即座に入門を申し出て、許可をいただくことができました。この時のことは今でも鮮明に覚えています。

当時の東京道院は場所を転々として月に1度しかないこともありましたが、どんなに仕事が忙しくても通いました。継続は力なりとは全くそのとおりだと思います。継続すればこそ拳禅一如の修行に厚みと重みができます。
※東京道院(当時)の拳士たちと開祖


逃げるな、忘れろ、楽しめ

開祖に初めてお会いしたのは1963年です。その時に「君は早稲田大学出身で運動部にいたのだから、行って教えなさい」と言われ、早稲田大学少林寺拳法部の監督をすることになりました。まだ二段で切小手もろくにできず全く自信がありませんでしたが、「逃げるな、忘れろ、楽しめ」という開祖の言葉を胸に一生懸命取り組みました。

特に四段受験のために約1年間行った特別練習は猛烈でしたね。乱捕りのように思い切って突いたり蹴ったりしてきますから、こちらも必死で避けなくてはいけません。けがも当たり前でした。昇格考試2ヶ月前に右足拇指付け根を骨折してしまったのですが、それでも練習は休まず、骨折3日目にギプスを外して、NHKテレビ番組「それは私です」に出演もしました。忘れられない思い出です。

aun_tunagu_vol17_03昇格考試では、開祖の前で演武をしました。うまいとか下手とか関係なく、やってきたことをすべて出そうと思い切ってやったんです。そうしたら開祖に呼ばれて、「たいへんよかった、もう大丈夫だな」と誉めていただいて、感激もひとしおでした。早稲田のことをずっと気にかけてくださっていた……。この四段昇格時の特別練習は、私の少林寺拳法の修行における基礎ともなりました。

またこの頃から内山先生の指示により、演武を行う機会が増え、第一回全日本学生大会を始め、関東学生大会などでも模範演武をしました。今の様にきれいな演武ではなく、乱捕りさながらでとにかく気迫が違ったと思います。演武の途中、3度大きな拍手があったこともありました。

最初の頃の学生大会は乱捕りしかなく、今のような単独演武と団体演武は和木新三さん(大導師正範士七段)と私がつくったんですよ。しかし、開祖からは「少林寺拳法は組手主体だ。単独なんか練習のためにすることはあっても、見せるものじゃない」と怒られました。それから今、行事などで叩かれている太鼓のリズムは、私が東京都大会で叩いたものが基になっています。他にも、公式の場での司会や武道祭での技術解説などを、直前に要請されることがありましたが、「逃げるな、忘れろ、楽しめ」で全力を尽くしました。
※1970年頃の写真

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実るほど頭を垂れる稲穂かな

道院をつくったのは、私が監督をしていた富士短期大学少林寺拳法部のOBから、継続して修行したいと希望があったからです。道院には弁護士、医者、学者など様々な職種の人が集まり、教わることがたくさんありました。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」。指導すると相手から教わることがたくさんあります。自分が一番うまいとうぬぼれてはいけません。技もそうですが、これが正解、これでいいというのは一つもないんです。周りは皆、師です。

aun_tunagu_vol17_05技の指導においては、山本五十六の「やってみて、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ」を実践してきました。どこへ行っても一番動いて、一番汗をかくようにしてきました。今でこそ腰が痛くて歩くのに杖をついていますが、指導の時は実際にやってみせ一緒に動いています。

国際武道大学へは、1992年に少林寺拳法部監督として就任しました。これは当時日本武道館の会長だった故・江崎真澄先生から内山先生ならびに松木長實大範士八段(志をつなぐvol.10参照)に、「国際武道大学の授業で少林寺拳法が正課になっていない。良き指導者を派遣するように」との要請があったものです。しかし、学部長と初めて挨拶を交わした時、「少林寺拳法は正課にできない」と言われました。宗教的なものだからダメだと言われたんです。その学部長はほどなくして定年で退職され、新しい学部長が就任されました。aun_tunagu_vol17_06

そこで、週2回の指導の度ごとに学部長の部屋を訪問することにしました。世間話ばかりして半年くらいたった頃、「ところであなたは何を教えているのですか?」と聞かれました。そして、私の少林寺拳法の指導を見にきてくださいました。すぐに「これは授業にしなくてはいけない」となり、64年4月から正課になりました。この写真は2003年、国際武道大学の教え子たちとのものです。全日本学生大会で大きなトロフィーをいただきました。

aun_tunagu_vol17_072番目、3番目の写真は90年代のものです。手先ではなく体で動くこと、下半身がしっかりしていなければならないことを説明するため、両手を帯で縛って、片手で投げました。一番下は96年、ニューヨーク講習会の写真です。手を縛って、腰の捻転で投げてみせると皆、ビックリしますよ。身長が2メートルくらいある外国人拳士も投げ飛ばしました。

私は、少林寺拳法の技術は一人にしかできない名人芸ではなく、科学的で普遍性を持ったものだと思っています。それを理論的に解明しようと書いたのが、『あらはん』創刊号から5号まで掲載された「柔法に対する一考察」という論文です。多くの先生から、よくまとめましたね、教科書にしたいからくださいと言われました。少しでもお役に立てたらと思っています。


何事も原点に返る

私も始めはとにかく技だけ一生懸命でした。しかし、四段になり指導していたあるとき、技だけではダメだと気付き、それからは仏教の本もたくさん読んで勉強しました。道院では、社会に貢献できる人づくり、真の社会の指導者育成を心掛けてきました。技の中に教えがある。金剛禅指導者たるもの、何事も実践が伴わないようでは、金剛禅の輪を広げる事はできません。

続けていて一番よかったことは、この法縁により打算のない人間関係を得られたことです。また、私は務めていた会社が倒産するという経験を2度したことがありますが、乗り越えることができたのは修行を通じて強い精神を養っていたからだと思っています。徳富蘇峰の詩に「踏まれても、踏まれても、春来たりなば咲くたんぽぽの花」があります。雑草の様に強く生きる事の大切さを痛感しています。

aun_tunagu_vol17_08開祖からはお会いする度に「早稲田はどうなっている?」と聞かれました。開祖は道院長の名前をよく覚えていました。開祖のお話は多岐に渡り、実に博学ですし、技も見事でした。講習会では、本山のそうそうたる先生方が演武をされるのですが、「それではだめだ、やりなおし!」と非常に厳しかったですね。夜は蚊取り線香をつけて、整体を教えていただいたことも覚えています。

いろいろなことが思い出されてきます。本当に様々な経験が自分を成長させてくれたと感謝しています。

aun_tunagu_vol17_09「天上天下唯我独尊」、大切なのは自分なんですよ。一人ひとりが自分を大切にし、そして、同じ様に他人のことを考える。自分が幸せになれないのに、他人を幸せにできるわけがありません。「半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを」、口で言っているだけではだめなんです。開祖が言われたことは本当にそのとおりだと思います。みんなが幸せになればいいんですよ。何事も原点に帰ることが大切です。

評価は他人が決める事、一生懸命やっている姿を見せて、「あの人が言うのなら」とか「あの人のようになりたい」と思ってもらえたら……、それが金剛禅なのだと思います。
※写真上は1998年、東京別院別院長時代
 下は2003年頃、門下生より贈られた陶器の人形