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vol.34 鎌田智 大導師大範士八段 107期生

2014/05/28

汗して学び行動する少林寺拳法、死ぬまで修行を貫きます
鎌田智 大導師大範士八段 107期生

1940(昭和15)年4月、香川県生まれ。59年、高松工芸高校機械科卒業後、富士塗油器(株)入社。その後、(株)エリザベス、高松精密機械(株)を経て、81年、(株)タイホー入社。2003(平成15)年の定年退職まで務める。1958年、高松別院(現・高松中央道院)に入門。79年、高松木太道院を設立。本山委員始め多くの役職を歴任し、2011年、名誉本山委員に就任、現在に至る。

鎌田智 大導師大範士八段 107期生

私の師は二人います。開祖から教えを、田村道明高松中央道院道院長から勇気と行動力を教わりました。21歳のときから15年余、開祖が講演などで全国各地に出向かれるときは同行される田村先生についていき、開祖の講演前に演武を披露しました。私は、開祖の教えを実践し、一生懸命努力してこられた田村先生の後ろ姿を見て育ったのです。開祖は亡くなられた年の新春法会で、「死ぬまで修行に励めよ」と話されました。私が師を見て育ったように、私のことを拳士たちが見ているのだと思っています。これからも、「汗して学び行動する少林寺拳法」を目指し、死ぬまで修行を一直線に貫いていく決意です。

努力すれば何とかなる

私は子供の頃から喧嘩に強くなりたいと思っていました。そのため、高校に入学してすぐ柔道部に入部したのですが、腰を痛めて半年後に断念しました。上級生に投げられた際に畳の角で腰を打ち、医者から「再度痛めたら障害が残る」と言われたのです。しかし、何か武道で強くなりたいという思いは強く持っていました。

そんな頃、少林寺拳法を知り、入門の機会を得ました。高校2年の時です。先輩方の演武や乱捕り、また田村道明道院長の緊迫感あふれる組演武を拝見して、「剛柔一体の少林寺拳法の技は凄い」と感動したものです。これなら本気で修練に取り組めば必ず喧嘩に強くなれると確信しました。

週3回の修練は、いつも最初に高松別院(現・高松中央道院)に入り、最後に道院を出ました。修行は作務から始まり、午後7〜10時まで全員で修練、その後に自由練習です。自由練習は11時半から時には12時まで行われていました。当時の私はもっぱら、胴を着用しての基本の突き蹴りや自由乱捕をし、常に最後まで残っていました。道院での修練が毎日楽しみでなりませんでした。

就職してからも、少林寺拳法の修行日は午後5時半に帰宅し、道院に行きました。その代わり会社には毎朝一番に出勤しましたし、修行日以外は毎日、最後まで残って仕事に励みました。これは定年までの45年間続けました。

1963年9月、武専で聞いた開祖法話は、その後の私の人生の指針となりました。「誰も5年先、10年先がどうなるか分からない。そんな先のことを考えて思い悩むより、今、自分の置かれた立場の中で本気で努力することが大切だ。今の努力の積み重ねの上に将来があるのだ」。

その時、私は21歳、給料は安く、将来に希望を持てずに悩んでいました。しかし、開祖の言葉に悩みはふっ切れました。そして、本気で勉強して将来どれくらいの力を発揮できるか試してみようと決心し、10月に転職しました。仕事上の専門分野を勉強し、本気で打ち込んだ結果、3年後には係員20人の係長になったのです。

aun_tunagu_vol19_02「努力すれば何とかなる」。この経験はその後、積極的に生きていく力となりました。自信と勇気を得られた、と深く感謝しています。

少林寺拳法も仕事も自分の選んだ道です。「好きになればいくらでも努力できる」ということを修行の中で学んでいきました。
※写真:1961年8月、開祖、道院拳士と本部道場にて。日本少林寺拳法全国指導者講習会。右端が鎌田21歳。

みんなと仲良くするリーダー

入門した当時は、香川県高松市でも、少林寺拳法という名前すら知られていない時代でした。ですから、拳士が友人や知人に、護身としての少林寺拳法の技のすばらしさを示し、説得して入門させ、拳士(仲間)を増やしていきました。

私も入門して4ヶ月後、3級になった頃、高校の同級生6人と公園へ行って乱捕りをし、少林寺拳法に入門するよう説得したことがあります。6人全員が「鎌田はすごく強い」と納得し、入門を了承してくれました。さらにその他にも6人の同級生の希望があり、一度に12人が道院に入門しました。同じ様に近所の遊び友達にも少林寺拳法の技のすばらしさを見せ、7人を入門させ、一緒に道院へ通ったものです。当時は高校生以上の大人ばかりで、激しい修練でした。社会人になってからも職場の若い人を入門させ、共に修練に励みました。

35歳を過ぎると、私の職場での行動が影響するようになり、職場の若い人だけでなく、先輩や上司のお子さんも入門してくれるようになってきました。そして今は人との絆で縁が広がっていることを実感しています。かつて道院で一緒に修行した拳士のお子さんやお孫さん、勤めていた頃の職場の仲間のお子さんお孫さんが入門してくださっています。

道院では、入門式や新春法会といった儀式行事をはじめ、バーベキューや忘年会、もちつき大会などで活動を充実させると共に、積極的に外へも布教活動を行っていきました。道院の演武大会、地区でのお祭り、小中学校などでの講演や演武披露で少林寺拳法の知名度を上げ、仲間を増やしていきました。

aun_tunagu_vol19_03高松木太道院の行事には保護者・拳士だけでなく他道院からの参加もあり、大勢の人でにぎわいます。これは門下生同士のつながりでやってくるのです。私は入門式で必ず、「私たちは少林寺拳法で体を鍛えて、みんなと仲良くすることを勉強している」と話します。子供たちにも学校で仲良くするリーダーになれと話しています。拳士たちはそれを実践してくれているのです。

少林寺拳法は、何かあった時に一致団結して行動できる人の集まりでなかったらいけません。仲間同士で足をひっぱったりするなんてつまらない話です。他人に依存するのではなく、自分で考えて行動できる指導者を育てる道が金剛禅なのです。
※写真:スペインの支部長キングさん来日、拳士全員と記念撮影。

開祖から田村先生、田村先生から私へ

今でも情景が浮かんでくる、私が、開祖と田村先生を師として生涯目指そうと決意した出来事があります。それは教範上巻114ページに掲載されているNHKテレビニュースの写真にまつわる話で、その上から3枚目の演武をしている写真の拳士は、私(右、当時23歳)と谷上正先輩です。

1963年1月2日、本山の鏡開式にあわせてNHKが少林寺拳法を全国に生放送しました。その日、本部道院の狭い道場は、拳士で満杯でした。

私は朝3時頃に起きて、高松から電車で多度津に行き、6時頃から何回もリハーサルをして、8時からの本番に備えました。本番は10分くらいの放送だったと思います。生放送は時間が来れば強制的に切られてしまいます。いつもの公開演武披露では、一番若い私と谷上先輩の演武から始まり、次は多田先輩の組演武、直島の上田道院長の組演武、最後に中野益臣先生・三崎敏夫先生の組演武という順番でした。しかし、今回はいつもと逆の、中野先生・三崎先生の組演武から始まりました。そして、三組の演武が終わったところで生放送が終了してしまったのです。

開祖は「演武はそれまででよい」と言われました。一瞬、とても残念だと思いました。今日のために練習を重ね、朝早くから多度津に来たのですから……。その時、田村先生が「管長、少し待ってください」と言ってくださいました。当時は、開祖のことを管長とお呼びしていました。「私の門下生の鎌田と谷上を連れてきておりますので、二人の演武を見ていただけますか」と。開祖は「そうか、やれ」と言ってくださいました。

さっそく皆の前で演武をさせていただき、終わると開祖は、「この前見たときより良くなっているぞ」と声をかけてくださったのです。もう感激しましたね。

その一言に、開祖の田村先生に対する思いやり、また私たちに対する思いやりを痛い程感じたのです。同時に、田村先生の自分の弟子に対する思いやりにも感激感動でした。

aun_tunagu_vol19_05このとき、私はこのお二人を生涯の師とし、ついていきたいと決意しました。常に他人を思いやる心で行動することを教えていただいたと思っています。人は感動することで変わります。

開祖は時に厳しいことも言っておられましたが、常に他人に対して思いやりある気持ちで接し言葉をかけておられました。開祖から田村先生、田村先生から私という師弟関係の中で、私はたくさんのことを学ばせていただきました。
※写真:1963年5月、海岸寺にて師である田村高松中央道院道院長との演武。投げられているのが鎌田。

理屈ではない行動の大切さ

21歳のときから15年余、開祖が講演などで全国各地に出向かれるときは同行される田村先生についていき、開祖の講演前に演武を披露しました。

少林寺拳法関東学生大会は第1回から12年間毎年行きましたし、京都別院開設2周年の演武会をはじめ、数えきれない程、全国各地で演武をさせていただきました。仕事で断るなんてことは考えられません。田村先生から言われることは組織トップからの命令、先生の顔をつぶすわけにはいきません。仕事を休み、交通費など全部自分持ちで、本当にたくさんの時間とお金をつぎ込みました。しかし、少林寺拳法で勉強させていただいていますし、組織を支えることは当然のことと思っています。

aun_tunagu_vol19_04田村先生は、組織に何か問題が起こるとすぐに飛んで行き、解決してこられました。私も連れていって欲しいと頼んだことがありますが、道場の留守を任され、かないませんでした。でも、先生は帰ってきたら必ず報告してくれました。「見て見ぬふりをするな、行動せよ」、理屈ではない行動の大切さを田村先生の姿から学びました。私は田村先生に少林寺拳法で育てていただいて、勇気と行動力を養うことができました。

今これだけの組織ができたのは、皆が協力してつくってきたからです。私は組織を支えてきたことに自信と誇りを持っています。これからも、開祖がつくったこのすばらしい技と教えを、皆で守り伝えていきたいと思います。
※写真:1969年6月23日、高松木太道院開設道場開式。田村先生の前で多田先輩と組演武を行う。鎌田39歳。

私の生き様が少林寺拳法

道院設立を考えたのは36歳の時、10歳上の兄が病死したことがきっかけです。悔いのない人生にしようと、父に相談して土地を借り専有道場を建築しました。そして、79年5月、高松木太道院は認証を受けました。

新設道院長講習会では、受講生が40人くらいいる中、開祖は私の顔を見て開口一番、「鎌田、ようやく本気でやる気になったか」と声をかけてくださいました。私は「はい、本気でやります」と返答しました。開祖が自分のことを見ていてくださったことに感激すると共に気持ちが引き締まりました。

開祖は逝去された年、1980年1月、本山新春法会で「死ぬまで修行に励め」と言われました。「人はいくつになっても努力すれば変われるぞ」という開祖の言葉を自分自身の生き様に重ねて実感しています。

私は子供の頃から、ここ高松市木太町で育ちました。今では少林寺拳法というと鎌田だと言われます。私の生き様が少林寺拳法、人は私を見て少林寺拳法を判断します。ですから、自信を持って行動しなくてはいけません。人によい影響を与える人間になるために私たちは修行しているのです。

私は開祖の教えを実践し、一生懸命努力してこられた田村先生の後ろ姿を見て育ちました。私が師を見て育ったように、私のことを拳士たちが見ているのだと思っています。

入門以来、今でも一番最初に道院に行き、最後に出るという習慣を続けています。道院では鎮魂行も法話も、法形修練に演武も乱捕りも欠かしません。金剛禅は指導者育成の道、どれか一つ欠けてもどんな人を育てたいかが分からなくなってしまいます。また、毎月の本部武専も54年間、ほとんど休んだことがありません。「汗して学ぶ少林寺拳法と仲間が好きだから」です。

aun_tunagu_vol19_06人を育てるには自分自身が努力し続け、変わっていかないといけません。私自身が一生懸命努力していれば、自然とそれを見て次の人が育つと思っています。今まで一度も道院長をたいへんだと思ったことがありませんし、やめようと思ったこともありません。すばらしい仲間がたくさんできて、一番楽しんでいるのは私自身なんです。

これからも、「汗して学び行動する少林寺拳法」を目指し、死ぬまで修行を一直線に貫いていく決意です。
写真:高松木太道院達磨祭にて。