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vol.35 中山満洲雄 大導師正範士八段 162期生

2014/07/28

いい仲間は何よりの財産、多くの人に支えられた人生に感謝
中山満洲雄 大導師正範士八段 162期生

1942(昭和17)年8月、満州生まれ。61年、大分県立四日市農業高校卒業後、日本製粉株式会社に入社。2003(平成15)年の定年退職まで42年間、務める。1962年、神戸道院に入門。67年、須磨道院を設立。本山委員始め多くの役職を歴任し、2013年、名誉本山委員に就任、現在に至る。

中山満洲雄 大導師正範士八段 162期生

開祖にご挨拶したとき、「君は高校出だから、上の人と接しようと思ったら労働組合の役員ぐらいしなくては」と言われたことがあります。その時は、自分が役員になるなど考えてもいませんでした。しかし、人間関係を大切にし、開祖の教えを実践するうち、周りから推薦されて労働組合の支部長になり、運営協議会で社長や重役に率直な意見を述べるまでになりました。影響力のある人間になれ、という開祖の志を純粋に受け止めて行動してきました。私の人生は少林寺拳法一色。少林寺拳法がなかったら、これほどたくさんの出会いはなかったと思います。多くの人たちに支えられ、感謝、感謝、ありがとう。


開祖直々の師弟盟盃

私は九州の高校を卒業後、日本製粉株式会社の神戸工場に入社しました。当時は、集団就職で田舎から都会に出てくる人がたくさんいたのです。神戸に来て、会社の先輩に藤本義政名誉本山委員がいたことが、少林寺拳法と出会うきっかけとなりました。

aun_tunagu_vol20_02ある日、先輩が竹製の胴を持ってどこかへ出掛けるのを見かけました。尋ねてみると、「少林寺拳法だ」と。「一回見に来ないか」ということで、さっそく神戸道院(故・森道基道院長)を紹介していただき見学に行きました。私は中学・高校と柔道をやり、その時ちょうど空手を始めたところでした。武道が好きだったんです。少林寺拳法は以前から会社の人が何人か行っているのを知っていましたので、一度見学してみたいとは思っていました。そして、見学に行ったその場で入門を決意、19歳の時でした。

入門した時のことは今でも覚えています。22名の入門者がいました。入門式を行うからと言われ、訳も分からず表に並ぶと茶人帽風のものをかぶった体格のいい人が来ました。「礼」の号令で一斉に礼……。それが開祖との初めての出会いでした。ちょうど京都からの帰りで、わざわざ神戸に立ち寄って入門式を執り行ってくださったのです。でも、その時は何がなんだかさっぱり分からず、開祖とも分かっていませんでしたから、後で森先生から聞いてとても驚きました。師弟盟盃は開祖から直々にいただいたのです。

aun_tunagu_vol20_03その後は神戸道院で一生懸命修行に励み、武専にも入りました。あのころ関西の人は皆、毎月、本山に帰ったものです。旧道場が武専会場で、たまに開祖もいらして、法話や技のご指導をいただきました。

少林寺拳法は他とは雰囲気が違い、上に立つ人が実際にやってみせて教えてくれ、対話があり、優しさがある、また人としての生き方の法話も新鮮でした。何より信頼できる仲間が増えていきます。修練の後には毎回のように「どっか行こか」と繰り出して、本当に楽しかった。どんどんのめり込んでいきました。
上)20代のころ
下)1964年、第二次指導者講習会。前列右から5番目が中山


疾風怒濤の時代

そのうちに先輩たちが神戸道院から次々と独立して行きました。第一号が今井明雄名誉本山委員(「志をつなぐ」vol.4参照)の明石道院、次に藤本先生が姫路道院、続いて加古川、静岡、彦根……と出て行きました。皆、神戸から離れた地で一国一城の主になる、と意気盛んな時期でした。しかし、その間も神戸道院の所帯は大きくなる一方で、神戸市内の区にも道院を出そうということになったのです。そして、「中山に須磨区を任せたらどうですか」と先輩や周りから推され、25歳の時に須磨道院を出すことになりました。

aun_tunagu_vol20_04活動は須磨区役所公会堂からスタートしました。ピータイルの土足の場所でしたので、足の裏も道衣も真っ黒になってしまいます。そこを練習前に皆で雑巾掛けをして、週に3回、練習していました。4、5年くらいそこで活動しました。写真は、その公会堂で活動していたときの入門式の様子です。

最初はなかなか人が集まらず、4、5人ぐらいだったと思います。ポスターをはったりチラシを配布したり苦労しましたが、そのうちに口コミでだんだんと人が増えだしました。神戸市の計画で各地区に小体育館が次々建設された時期だったこともあり、市からの依頼で体育館を修練場所に使用できるようにもなりました。少林寺拳法用のロッカーも用意してもらえて胴や防具を置くことができ、拳士は一番多いときで200人以上になりました。

あの頃は、組織の拡大や防衛のために、一致団結して行動した時代でした。問題が起こると、皆がバーッと集まったものです。今はそうではないのかもしれませんが、師匠の言う事は絶対、少林寺拳法6割、会社や家庭4割という感じでした。ひとたび号令がかかればそれこそ仕事も放り出して行く、その団結力・行動力はすばらしいものがありました。


拳士は社会で尊敬される存在に

少林寺拳法の活動を認めてもらうために、仕事も一生懸命に取り組み、職場でいい人間関係を築くよう努力しました。開祖も「少林寺拳法だけでなく仕事も一生懸命しなければいけない。好かれる人にならなければ」と言われていました。

今でもよく覚えているのが、兵庫県少林寺拳法連盟の役員になって、開祖にご挨拶に行ったときのことです。「君は何をやっとるんだ」と聞かれ、「兵庫県少林寺拳法連盟の事務局長を務める中山と申します」と答えると「そんなもん聞いてない」って怒られました。仕事を聞かれていたのです。「日本製粉株式会社神戸工場に勤務しています」「おお、そうか、製粉会社ってどういう会社だ」。そして「君は高校出だから、上の人と接しようと思ったら労働組合の役員ぐらいしなくては」と言われました。その時は、自分が役員になるなど考えてもいませんでした。しかし、人間関係を大切にし、開祖の教えを実践するうち、周りから推薦されて労働組合の支部長になったのです。

労働組合では、主張すべきは主張するが、相手の立場にも立って考えるという姿勢を貫きました。同じ支部長の中には上の人に無礼な口をきき、会社に反発ばかりしたり、反対に言いなりになる人もいましたが、それではいけないと思っていました。会社からも信頼を得る事ができていたと思います。5年ごとに開催する須磨道院設立の周年記念大会には、必ず工場長など会社の人が大会顧問や来賓などで来てくれました。

aun_tunagu_vol20_05日本製粉には42年間、定年まで勤め上げました。退職時、もう少し働いてほしいと請われたのですがお断りしました。少林寺拳法に専念したいからと(笑)。しかし、いい人間関係は今でも続いています。毎月、社内報が届きますし、年に何回かは同僚と集まって話をします。かつての仲間の中には重役になっている人もいます。開祖からいろんなことを教えていただきましたが、一番はこうしたいい人間関係を築けたことです。 

開祖のおっしゃった通りだ、と思ったことは他にもたくさんあります。言う通り実行していくと、どんどんその通りになっていくのです。影響力のある人間になれ、開祖の志を純粋に受け止めて行動していきました。
※写真右から故・森道基神戸道院道院長、藤本義政名誉本山委員、そして開祖

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地域社会の役に立つ

阪神淡路大震災の時は、道院の拳士や保護者の多くが被災者でありながら救援活動に参加し、全国から駆けつけてくれたボランティアの拳士と一生懸命働きました。こんな大惨事の時こそ、動じることなくすぐに行動できる組織を開祖はつくりたかったのだろうと思うと、感慨深いものがありました。

しかし、1年以上、活動を休止せざるを得ず、もう少林寺拳法はできないのではないかと思うこともありました。人はいないし、修練場所もない……、そんなときも力になってくれたのはやはり仲間です。3人でも4人でもいいからやりましょう、続けないことには皆どこに行ったか本当に分からなくなる、ということで、一からやり直すつもりで再開し、現在に至ります。aun_tunagu_vol20_07

私自身、震災で家が半壊したことから、現在のところに引っ越すことを決め、その際に念願の専有道場を建てる事もできました。小さくてもいいから道場が欲しいという長年の夢をかなえる事ができ、ここを活用してさらに布教活動を展開したいと構想を練っています。

現在、兵庫県青少年連絡協議会の構成22団体の中に兵庫県少林寺拳法連盟が入っています。しかも行政と一体になって青少年活動を進めていくAクラスに。Aクラスは少林寺拳法連盟を含めて8団体、毎月、各団体から運営委員が集まり会議を行います。私はずっと運営委員として、合宿やフェスティバルなど青少年育活動の企画運営に関わってきました。

aun_tunagu_vol20_08少林寺拳法が単なる武道やスポーツ団体ではないことを理解してもらいたいと思って活動してきました。それがようやく理解され定着しつつあります。やはり、少林寺拳法というと武道的な見方しかされないのが一般的です。来賓を呼ぶ機会が競技としか見てもらえない大会だけでは仕方がないように思います。もちろん、迫力ある演武を見せて人を集めるのは、とても大事な普及活動に変わりはありません。しかし、それプラス金剛禅運動、という私たちの思想を理解していただくための行動が大切だと思っています。武道だけでなくいろんな分野の団体と協力関係を築き、一緒に地域社会に役立つ活動を心掛けてきました。

aun_tunagu_vol20_09現在、私は兵庫県の心豊かな人づくり500人委員会の委員やこうのとり大使にもなっています。少林寺拳法の指導者は地域社会にどんどん出て行くことが大切だと思います。
写真上から)※専有道場での新春法会
※神戸祭りに参加、1968年頃
※1970年、第1回ヨーロッパ親善使節団。フランス迎賓館での演武披露
※1994年、ヨーロッパ親善使節団には団長として参加


技も思想も一生懸命

aun_tunagu_vol20_10しかし、私も最初から地域社会に役立つ人間になろうと思っていたわけではありません。とにかく拳技を学びたくて、強くなりたい、迫力ある演武をできるようになりたい、その思いだけでした。しかし、だんだんとそれだけではいけないと思うようになっていったのです。

この写真のように昔は海辺で寒稽古をしたり、ずいぶん鍛えていましたね。よその武道家に負けてたまるかという思いでしたから(笑)。もちろん、その意気込みは大切だと今も思っています。金剛禅の主行は少林寺拳法ですから、拳技を極めることもおろそかにできません。拳技が大したことなく、教えも口だけでは、布教にはなりませんよね。

aun_tunagu_vol20_11少林寺拳法は拳禅一如、拳が先、肉体が先なんです。だから、まず肉体を鍛えて欲しいと思います。理屈をこねるよりまず行動です。すると自然と金剛禅の教えに進んでいく。いろんな人と関わり、地域活動に出て行くことによって、金剛禅の話をする機会も生まれますし、視野も広くなります。何でも損得で考えるのではなく、積極的に参加して欲しいなと思います。

私の人生は少林寺拳法一色。少林寺拳法がなかったら、これほどたくさんの出会いはなかったと思います。人との出会い、そして人間関係を大切にしてきました。

aun_tunagu_vol20_12後で気が付いたのですが、開祖は拳士一人ひとりに会社のこと、仕事の内容を聞いていました。そして聞いたことを題材に講習会でお話しされるのです。すごい記憶力だと思いましたし、一番印象に残っているのは、私のこともちゃんと名前を覚えていてくれたことです。江崎真澄防衛庁長官就任祝いの際、「中山君ちょっと、君、この頃貫禄でたな」と声を掛けていただき、感激したのを覚えています。開祖はいつもエネルギーをくださいました。本山に行くたび、充電されて帰ったものです。

好きな言葉は「継続は力なり」です。少々嫌だなと思ってもまず行動してみること、そして続けることです。先に立つものが燃え続け、行動してこそ道が開けます。これからも人を大切に、この道の布教に邁進していきたいと思います。
写真上から二番目より順に 
※87年頃、白衣殿壁画の前で 
※恩師・森先生ご夫婦と