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vol.38 田中正則 大導師正範士八段 252期生

2015/01/28

行動する前から諦めるな、家族愛が世界を救う
田中正則 大導師正範士八段 252期生

1937(昭和12)年2月、岡山県生まれ。鉄道会社勤務を経て、自動車整備工場を経営。87年6月、学校法人華正学園倉敷少林寺高等専修学校を開校、理事長兼校長を務める。69年、連島道院に入門。74年、水島中部道院を設立。本山委員をはじめ、多くの役職を歴任し、07年より名誉本山委員に就任、現在に至る。

田中正則 大導師正範士八段 252期生

「私学校でも開いて志ある青少年を集め」という開祖の決意をまねて専修学校をつくりました。理事長兼校長を務め、もう27年になります。私は小学4年のときに腸チフスを患い、痩せこけて、かなりのいじめに遭いました。正義を守るためには力の裏付けが絶対必要であることを痛感しています。今は教育委員会からの依頼で、ワルといわれる生徒だけでなく、先生の指導も、ボランティアで行っています。開祖の「行動する前に諦めるな」という言葉を胸に、学校運営にもボランティアにも取り組んでいます。行動はまず身近なところから、福祉の改善はまず家族から。家族愛が世界を救うと思っています。

力の裏付けは絶対必要

私は小学4年の時に腸チフスを患い、生死の境を彷徨いました。一命はとりとめましたが、痩せこけて、学校でひどいいじめに遭ったのです。弁当の時間、「汚いから外で食べろ」と教室に入れてもらえず、寒い季節、1キロ離れた家へ走って帰り弁当を食べて、また走って学校に戻るという生活が長いこと続きました。

両親は、日中、仕事で家にいませんでしたので、いじめのことは言わず、朝、つくってくれた弁当を持って学校に行き、昼に弁当を持って走って家に帰るという毎日……子供心に、強くならなければと思ったものです。柔道をやらせてほしいと親に頼んだことがありましたが、中学生になるまでやらせてもらえませんでした。

しかし、そうして毎日走っていたため体は丈夫になり、中学では全校マラソンで5位に入るまでになっていました。するといじめは次第におさまっていきました。柔道を始めてからは、片道12キロの山道を自転車で休まず道場に通ったこともあり、さらに丈夫になり自信もつきました。中学3年になるころには、力の弱い子をかばえるまでになっていました。

中学校卒業時に、クラスでも人気の、憧れの女の子がサインしてくれた言葉は今でも覚えています。「人を哀れむ心は美しい心です」というその言葉は、私がいじめられそうな人をかばうのを見てくれていたからだと思います。いじめを見たら、体を張ってでも何とかしたいと思う、正義感は人一倍強かったです。

柔道は高校までやりました。弟を学校の柔道部に入れ、部活外で私が教えていたのですが、次第に教えた相手の方が強くなってしまい言う事をきかなくなってきて、これはまずいと思っていたところ、たまたま近くに少林寺拳法を見つけました。さっそく見学に行くと、その時は一本背投げの練習をしており、柔道をやっていた私にはつまらなく感じ、それから1年ぐらい間が空いてしまいました。もしその時すぐ入門していれば、開祖にお会いするチャンスがもう1年早かったかも……そう思うと残念でなりません。

とにかく、私の入門の動機は、喧嘩に強くなること、負けないことです。今でもそうです。力の裏付けは絶対に必要なのです。

恒例の本山年末作務

始めて開祖のお声を聞いたのは、錬成道場落成式の時です。寄付をしたので道院長が連れて行ってくれました。まだ私が黒帯になる前で、遠目に開祖が挨拶されるのを拝見し、豪放な人だなぁと思いました。

初段をとるとすぐ武専に入り、毎月、本山に通いました。開祖のお話を聞きたかったからです。仕事の疲れからつい眠りそうになるのを、眠気覚ましの薬を何本も買って飲むなど努力しました。そうまでしても、開祖のお話をお聞きしたかったのです。武専には休まず通いました。

aun_tunagu_vol23_0218年ほど続けた年末の本山作務は、少しでも開祖に近づきたい、声を掛けていただきたい、門下生たちも開祖とお話ししたいだろう、と考えてのことです。そのころすでに組織は拳士数が大幅に増えて、開祖に挨拶しようと思っても、近寄ることもできなくなっていました。行事では常に人に取り囲まれていて50メートル以内に近づけないんです。そこで、道院で本山の作務を計画し、上の写真のように、道院拳士でお揃いの作業服もつくって取り組みました。

本山作務は開祖も喜んでくださり、普段はサインを好まない開祖が、私のお願いに応えてサインをしてくださるなど、温かなお心遣いもいただきました。開祖から「ごくろうさん」と声を掛けていただいた時は、門下生も大喜び、その後の顔つき、姿勢がガラッと変わりましたね。

私の社会貢献活動

私が道院長になろうと思ったのは、皆を強くしてやりたいと思ったからです。拳士は多い時には400人になりましたが、ほとんどが口コミで集まった人達です。布教は、一人ひとりに直接、少林寺拳法のおもしろさや魅力を伝えるしかないと思っています。とりわけ道院の拳士一人ひとりの行動、質が重要です。学校で悪いことばかりしている人が拳士では、少林寺拳法自体の評判が落ちていい宣伝にはなりません。いつもどうしたらいいのかを考えていました。

aun_tunagu_vol23_03私自身の布教活動としては、ボランティアで県内の荒れた学校に行って、不良と言われる生徒、それから先生の指導をしています。学校での触法犯罪は、全国で岡山県がワースト1、しかも、その岡山県の中でも倉敷市が一番悪いのです。私は荒れた学校へ、校長や教育委員会からの依頼を受けて指導に行っています。仲間からつけられた異名は教育委員会からの用心棒。これまでに7校を立て直し、今も倉敷市で一番荒れている中学校へ手伝いに行っています。学校が手を焼いている生徒数人の面倒を見ていますが、ようやく最近になって私との挨拶ができるようになってきました。最初は「おはよう」と声を掛けても、何しにきたという目で一言も発しなかったのが、2ヶ月たって、ようやく挨拶できるようになったのです。生徒の態度が変わったのは、前に手伝った学校の悪仲間からメールで私のことを聞いたからのようです。前の学校には3年いましたが、とてもいい学校になったんですよ。最初の1年間は辛抱我慢で、根気強く一生懸命指導しました。手を出してくる生徒を避けて制し、関わりをもつように努め、また、生徒だけでなく先生にも、正義を守るためには力の裏付けがないといけない、と指導をします。これは私の社会貢献活動です。

家族愛から始まる

aun_tunagu_vol23_04青少年育成は本当に難しい。人を変えるというのはものすごく難しいんです。何より自分が変わらなければ……、だから生涯修行なんですね。どういうふうに教えたらいいのか、常に模索し、我慢し、ジレンマも抱えています。1年ぐらいかけて、不良と言われる生徒がどうにか授業に出られるようになるのをみると「最後まで諦めてはいけない」ということを実感できます。「行動する前に諦めるな」という開祖の教えを大切にしてきました。どこに価値を見出すのかによって、苦労ではなくなります。

「私学校でも開いて志ある青少年を集め」という開祖の決意を真似て専修学校をつくり、理事長兼校長を務めてもう27年になります。開祖の生き様に惚れ込んで真似したんです。

改定前の信条第二は、「我等は、日本人として祖国日本を愛し、日本民族の福祉を改善せんことを期す」でした。「改善せん」というのは、意志を表す言葉です。日本語は「あ」から始まって「ん」で終わる、つまりやり遂げるという意味を持っているのです。私が専修学校をつくったのが、日本の福祉を改善するためです。そこでは少林寺拳法を正課としており、福祉に貢献できる人材を育てることを目的としています。

そして、信条の最後は、「同志相親しみ、相援け、相譲り、協力一致して理想境建設に邁進す」ですね。金剛禅はまず身近なところから理想境を建設しましょうというもの。福祉を改善するには、まず、家族から。私が関わっている不良と言われる子供たちは、子供自身が悪いわけではなく、ある意味、犠牲者です。何の犠牲者かというと、家族……彼等の親には共通点があります。

金剛禅は「人づくりによる国づくり」の運動ですが、人づくりはどこでするかと言うと家庭なのです。八正道にふさわしい家族ができて、初めて輪が広げられるようになると思うのです。

今の日本は縁がものすごく薄くなっているように感じます。まず自分の身近なところから、理想境をつくっていくことが大切です。「家族愛は世界を救う」私はそう思っています。


心の中に開祖は生きている

そうした郷土愛、家族愛を伝えていくことが正義ではないでしょうか。道院長の使命は、開祖・師家に成り代わって布教をしていくことだと思っています。成り代わるのですから、自分の言動に対する責任は重大ですね。その使命を忘れてはいけません。

aun_tunagu_vol23_05教えにしても、技にしても、自分の中で完璧に伝えられたと思っても、70パーセントくらいしか伝わらないものです。いくら相手が一生懸命聞いていたとしても、10パーセントも聞いてくれていたらいい方だ、と開祖も話されていました。だから、繰り返し、同じことを話されていたのだと思います。

開祖はよく、「わしの真似をせい。わしを追い越せ」と話されていました。追い越すことはとてもできませんが、少しでも近づきたいと思って努力しています。

開祖も悩んでおられた……。人間味あふれる開祖を見てきました。今でも私の中で開祖は生きていらっしゃいます。年末作務の際に、開祖と撮っていただいたこの写真は、大切な私の宝物です。