• 志をつなぐ >
  • vol.40 秋吉好美 大導師大範士八段 157期生

vol.40 秋吉好美 大導師大範士八段 157期生

2015/05/02

生きてるうちは死にゃせん、失敗を恐れず、前を向いていこう
秋吉好美 大導師大範士八段 157期生

1941(昭和16)年7月、大分県生まれ。1960年3月、県立大分水産高校卒業後、水産会社を経て、61年、株式会社島津製作所に入社。62年4月、京都別院に入門。翌63年、転勤により東京へ。64年、渋谷道院を設立(82年に廃止)。81年、多摩豊田道院を設立。会社を定年退職後、2003(平成15)年8月、金剛禅総本山少林寺東京別院別院長に就任し、12年3月まで勤務する。本山委員はじめ多くの役職を歴任し、12年4月より名誉本山委員に就任、現在に至る。学習院大学少林寺拳法部監督。

秋吉好美 大導師大範士八段 157期生

入門の動機は、自分さえ強くなれればいいという不純なものでした。「少林寺拳法」という語呂のよさにも惹かれ、門を叩いたのが京都別院。法輪寺(通称達磨寺)庫裏を訪れたときに出会ったのが開祖でした。紹介者がいなければ入門できないところ、開祖が紹介者になってくださり、今考えても不思議とスムーズに入門できました。その“自分さえ”から、だんだんと理想的な道院をつくろうと変わっていきました。気付いたら変わっていたという……まさに人を育てるシステムが少林寺拳法にはあると実感しています。これからも、「生きているうちは死にゃせん」という開祖の言葉を大切に、失敗を恐れず、前を向いて歩み続けたいと思います。

開祖が紹介者
私の入門の動機はとても不純です。自分だけが強くなりたい、他人のことはどうでもいい、そういう気持ちでした。中学生の頃、いじめられていた時期があり、負けたくない、強くなりたいという思いがあったんですね。

aun_tunagu_vol25_02

京都別院時代、会社の裏庭にて

九州から出てきて京都で会社員になり、残業もなかった当時は下宿に帰っても特にすることがありませんでした。ふと散歩に出掛けた際、達磨寺に少林寺拳法と小さな看板がかかっているのを見つけました。それが京都別院だったんです。高校の頃、柔道をやっていたこともあり、武道には興味がありました。てっきり空手の一流派か何かと思い、その語呂のよさに惹かれて庫裏に入ると、そこで出会ったのが開祖でした。でも、その時は開祖と知りませんから、住職でもない寺の職員でもない、一体どういう人だろうと思いましたね。「入門したいのですが」と言うと入門願書をくれました。入門願書には保証人と紹介者の欄があります。「紹介者なんていません」と九州から来て下宿していることなど事情を話すと、「じゃあ、ワシがなってやろう。ただし、保証人はいるぞ」と。今考えても不思議とスムーズに入門できました。

開祖が京都に別院をつくられたのが61年、私はその翌年62年に入門しました。157期生です。同期入門で道院長になった人は数人いて、今も本山行事などで会うことができます。

57年、指導者講習会にて開祖と。後列左から四番目が私

57年、指導者講習会にて開祖と。 後列左から四番目が私

当時、開祖は月の半分は京都にいました。入門式で逆小手を掛けられた時のことは強く印象に残っています。柔道の投げと違い、足や腰も払わずにコテンと倒され、ひっくり返って起き上がろうとしたら今度は固められました。「いてて、参った」と言うと、「参ったとか言うな。痛かったら畳や手を叩いたり、痛い表現をしたらいい。参ったというのは身も心も負けた時だ」と言われました。

これがあったから続いたのかもしれませんね。すっかり技に夢中になり、会社の仕事をうまくやりくりして休まず通いました。練習は乱捕りが主体でした。

人を育てるシステム
入門した翌63年、東京転勤の辞令が出ました。下見で東京に出張にした際、内山滋大法師大範士九段(故人)の東京港道院があることを確認して、東京行きを決めました。東京に少林寺拳法がなければ転勤は断るつもりだったんです。東京オリンピック開催の前年で、街のあちこちで工事が行われていました。

aun_tunagu_vol25_04写真は新宿体育館で山崎博通少法師大範士八段と演武を行っているものです。折しもカッパブックス『秘伝少林寺拳法』がベストセラーになり、入門希望者が殺到した時期でした。転籍者は少なく、私はちょうど高知から中央大学に入学し東京港道院に転籍してきた山崎さんと演武を組むことになりました。その頃、よく演武を披露していた組は、久保博大導師大範士九段(「志をつなぐ」vol.1参照)と和木新三大導師正範士七段、そして松田欣一郎大導師大範士八段(「志をつなぐ」vol.17参照)と岩田定大導師正範士七段の2組でした。修練では、先輩方の演武に続いて3組目に私たちが演武を行った後、グループに別れて、各クラスを担当制で指導していました。

aun_tunagu_vol25_05そうして内山先生のもとで助教として過ごすうちに、だんだんと自分さえ強くなればよいというのから、自分の理想とする道院をつくろうと心境が変わっていったのです。

渋谷道院を設立したのは、64年10月、東京に来て約1年後のことです。最初は人がいなくてほとんど個人指導のようなものから始めました。そこから少しずつ人が増え、3年目には千駄ヶ谷公会堂で3周年記念演武会を行えるまでになりました。

また、その頃は、布教普及のため、内山先生の命であちこちに出かけては演武を披露しました。この写真は第四回関東学生大会での模範演武です。相手は山崎さん。こうした部内の行事はもちろんですが、米軍基地など部外の集まりにもよく出掛けました。下は日比谷公会堂前での写真です。左が山崎さん、真ん中が私です。aun_tunagu_vol25_06

演武披露後は、必ず開祖がされていたように、内山先生が少林寺拳法の説明をされました。そこでもたくさんのことを経験し、勉強させていただきました。そのおかげで今があることに感謝しています。まさに、少林寺拳法は人を育てるシステムであることを実感しています。

何事も一生懸命楽しむ

87年1月、多摩豊田道院での鏡開き式&もちつき大会

87年1月、多摩豊田道院での鏡開き式&もちつき大会

やがて結婚し、日野市に居を構えました。その頃から、いずれは地元日野市に道院を設立したいと考えるようになっていました。開祖の「地域に密着した活動を行い、地域に認められるように」という話が頭にあったんです。実現するのは81年。偶然、電車の中で、武専別科で知り合いだった石川博也副道院長に出会い、「地元でやってくれませんか」と言われたのがきっかけとなりました。

わりとすんなり修練場所も確保でき、81年、多摩豊田道院の活動をスタートさせることができました。18年近く続けた渋谷道院はその翌年に閉じました。多摩豊田道院は順調に人も増え、設立3周年の演武会は、京王電鉄の研修センター体育館で盛大に行うことができました。親子や兄弟の演武、寸劇、作文発表などを織り交ぜ、見る人の視点に立って拳士と一丸となってつくった演武会となりました。aun_tunagu_vol25_09

この写真は日野市体育協会加盟デモンストレーションでの行進です。開祖は一時期、「体協に入り、体協を変えろ」と言われたことがありました。体育協会に加盟したことで、認知度は随分高まり、布教普及につながったと思っています。

とにかく何事も一生懸命、楽しんできました。

道院長になってからが自己変革の時
私は、自分が変わったから道院長になったのではなく、道院長になってから変わりました。いい加減な気持ちで入った人間が、人前で話をしなければならなくなり、勉強せざるを得なくなったわけです(笑)。が、勉強といっても技が第一優先、自分自身が技を会得していなければ、伝えられるわけありませんから。

私はまず入門者が何を求めているのか、どういう気持ちで来ているのかを聞くようにしています。まずその人の求めるものを満たしてあげることが重要ですし、満足させられるだけの魅力が少林寺拳法にはあると思っています。独りよがりの一方通行で教えても、教わる方はおもしろみも納得感もなく、それでは長く続くはずがありません。人は満たされることによって自分の可能性を伸ばすことができ、さらにその先の人づくりによる国づくりつながっていくと思っています。

拳士には、使える技を修得しなさいと話しています。使える技だから自信がつくんです。実のない形ばかりの技を、訳も分からず真似しているだけでは、いつまでたっても使える技にはなりません。少林寺拳法は護身練胆の行法です。虚実を使い急所を狙う、とても危険です。修練も集中しなければ怪我をしますし、演武においても合掌礼から合掌礼で終わるまでの間、生死の間にいるくらいの気持ちがなかったら迫力もでません。緊張と緩和の落差が大きいのが少林寺拳法のいいところなんです。ただし、単なる武技ではない、ダーマ信仰に基づく、人間的成長が求められる道です。拳士には、技から学科を学び、学科から技を学びなさいと言っています。技法と教えは別々ではなくて必ずつながっています。当身の五要素にしても生活や仕事に生きてくるんです。

aun_tunagu_vol25_10

1965年、渋谷道院時代

私自身、自分さえ良ければという考えから、いつのまにか、気がついたら変わっていました。やはり人は変わらないと。道院長が変わるから拳士が変わる。道院長自身が変わっていく姿を見せて拳士に気付かせることが大切だと思います。

実は、最初のころの私は、開祖の話を半信半疑で聞いていました。人づくりによる国づくりなど、またあんなホラ吹いてと、失礼ながらそう思っていたんです。そのころ私は20代、若かった……。ところが、開祖が言ったことがだんだんと実現していくのを見て、自分も変わっていくことを実感できるようになっていきました。まさに開祖は背中で語り、見せてくれたのです。私の人生に大きな影響を与えてくれました。

やらない後悔よりやってからの後悔
aun_tunagu_vol25_11今さらながら、開祖がこの道を、未来を見据えてつくられたことを感じています。互いに高め合い共に成長を喜ぶ、少林寺拳法は今に生きるものですよね。開祖は、自分の手の内を見せて「私にもできるんだからお前たちもこれぐらいできる」という指導でした。新しい分野の指導者だと思います。できなかったことができるようになることで自信がつき、勇気が湧いてきます。少林寺拳法は、開祖がそうした慈悲心と勇気と行動力のある人間をつくろうと創始されたのですから、その在り方をそのままに伝えていかないと。

仕事と道院の両立では、道院に出るために仕事の時間をうまく工夫してきました。2回程転勤の話を断りましたが、いつでも、その時々を一生懸命、集中して取り組んできたつもりです。

86年、息子と一緒にジェット・リーと記念撮影

86年、息子と一緒にジェット・リーと記念撮影

常に頭にあったのは、開祖の「生きているうちは死にゃせん」という言葉です。とにかく前を向いて歩いていくしかない、自分自身で変わっていくしかないわけです。私は拳士に「失敗しろ」と話しています。失敗しても、そこで終わりにしなければいい経験になります。次への改善につながります。私はあるときから、何か頼まれたら「はい」と答え、ちょっと無理です、とは言わないようにしました。

失敗を恐れて、最初から逃げてはいけない。結果を恐れて行動しなければ結局何も変わりません。因果律ですね。何もやらずに後悔するよりも、やって後悔するほうがいい。そこには必ず何かしらの経験が残ります。これからもチャンスを逃さないよう、前を向いて歩み続けたいと思います。