vol.41 仏滅って仏教じゃないの 宗教習俗

2015/08/01

 私の住む富山県黒部市に、新幹線がやってきました。東京から長野までの長野新幹線が、金沢まで延びて北陸新幹線の開業となったのです。最寄りの黒部宇奈月温泉駅から東京まで乗り換えなし、2時間20分ほどで行くことができます。しかし、このような最先端の科学技術を駆使した土木工事でさえ、起工式では鍬入れや玉串奉奠といった工事の安全を祈願する神事が行われます。
 多くの日本人は、このような地鎮祭をはじめ、初詣で、七五三、神前結婚式、墓参りなどを宗教的行為とはあまり考えないようです。しかし、初詣では神社や仏閣に参拝し、神仏に一年の幸せなどを祈願します。神前結婚式では神の前で結婚を誓います。墓参りは祖先への供養です。そこには神仏、祖霊などの存在、また死後の世界などが想定されていて、人間を超えた力の存在を暗黙のうちに認めています。その意味で「宗教性を帯びた行為」であり、これらを宗教習俗といっています。生活の中に深く溶け込み、人々によってあまり宗教という意識もなく、伝えられてきた慣習です。
 その主なものとして、年中行事と人生儀礼があります。年中行事とは、一年の季節の変化の中で、その社会の儀礼として行われるもので、日本でいえば、初詣で、節分、節句、七夕、大祓いなどです。また人生儀礼は誕生、成人、結婚、葬儀などの人生の重要な節目に行われます。
 これらの宗教習俗には、神道、仏教、道教、儒教、そして最近ではクリスマスのようにキリスト教まで、さまざまな宗教の要素が流れ込んでいます。そのため、六曜の仏滅、友引などのように仏教とは一切関係がないのに、仏事と関係があるように思われているものもあるのです。このような複数の宗教的伝統が混ざり合い、時には深く結合するのが日本人の信仰の特徴だといわれています。
 開祖はこのような習俗を頭から斥けることはありませんでしたが、「車に交通安全のお守りをぶら下げている者はいないな」とよく言われたように、祈祷や呪術などは強く否定されていました。
 金剛禅は死後の安楽や死霊のたたり、神仏の罰や、加持や祈祷による救いを説く教えではありません。生きている人間が、拳禅一如の修行を積み、不屈の精神力と金剛身を養成し、まず己を拠り所とするに足る自己を確立し、そして他のために役立つ人間になろうという身心一如、自他共楽の道です。
 また、私たちは出家して山に籠って修行するのではなく、社会の中にあって、人々とのつながりの中で生活しながら、自己の変革を目指しています。社会とのつながりを無視した悟りや救いなど、本来ありえないはずです。釈尊の教えを行動原理として、社会の病巣や不正に悲しみと怒りをもって反応し、それぞれの分野で、それぞれの叡智を傾け、それぞれの方法で、周りの人々と手をつなぎながら、平和で豊かな理想社会の実現に立ち向かうことのできる人間を育てることこそが、開祖の願いでした。
 社会の中にいる私たちにとって、習俗と全く切り離した生活はありえません。死を考えることで本来の命の本質と向き合えるように、宗教習俗の内容や歴史、意味をよく知ることにより、教えを再確認するきっかけになればと思います。
(文/東山 忠裕)