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vol.41 喜田良延 大導師大範士八段 77期生

2015/07/03

同志相親しみ相援け相譲り、賢くて力のある群狼になれ
喜田良延 大導師大範士八段 77期生

1935(昭和10)年1月、香川県高松市生まれ。50年、新制桜町中学校卒業後、建設資材会社に就職。その後、溶接材料会社に勤務し、60歳定年退職まで務める。55年7月、高松大道院(当時)に入門。79年9月、高松南道院を設立。高松市青少年健全育成市民会議会長など、地域に根付いた青少年の健全育成活動を展開し、2014年憲法記念日知事表彰受賞をはじめ多数の受賞がある。多くの役職を歴任し、07年より名誉本山委員に就任。現在に至る。

喜田良延 大導師大範士八段 77期生

元旦は、水澤春夫高松東道院道院長(故人)と開祖のところへ新年のご挨拶に行き、ご自宅の客間でいろんなお話を聞かせていただくのが楽しみでした。満州での体験などお話の中で、一貫していたのが、「日本人は砂粒みたいな民族だ。何かあったときにすぐに駆けつけ助け合える、絆で結ばれた同志的な仲間づくりをしたい」ということでした。一匹狼ではだめ、賢く強く人を引っ張っていける群狼になれ、信条で唱和している「同志相親しみ相援け相譲り」が大切です。指導者は武芸者にならないよう、この原点を忘れてはなりません。少林寺拳法を続けてきて本当に楽しかった。今も楽しんでいます。

同志が1割いれば国はとれる
少林寺拳法との出会いは20歳の時、同僚から誘われたことがきっかけです。高松大道院(当時)に見学に行き、すぐその場で入門しました。当時は乱捕りが主体で、荒っぽく激しい練習でしたが、それがよかったんです。とにかく強くなりたかった。

実は1945年7月4日、10歳の時、米軍の高松空襲でそれまで住んでいた家が全焼し、田舎で暮らしていました。その時、農繁期には先生の命令で農家へ手伝いに行かされました。しかし、農作業は初めてですからうまくできるわけがありません。稲刈りの仕方が悪いなどと、ずいぶんいじめられました。それでとにかく強くなりたいという願望があったんです。

修練には欠かさず通いました。1年後、私が初段をとってすぐのことですが、道院長が破門になり、本山から水澤春夫先生(故人)が道院長に任命されました。なお、その後の流れを簡単に説明すると、2年後の58年、高松道院、玉藻道院、東讃道院が合併して本山直轄の高松別院となり、田村道明先生が別院長になりました。この頃すでに玉藻道院をつくった内山滋先生は関東に進出し、東京道院を設立しています。そして60年、水澤先生は高松別院から出て高松東道院を設立し、田村先生は高松中央道院を設立されました。私は別院時代に中拳士三段までとり、水澤先生について行きました。

この写真は初段の允可状です。なんかこう、言葉に温かみがあります。これが写真右の和紙で包まれているんです。ありがたみが増しますね。aun_tunagu_vol26_02この初段昇格考試の時、初めて開祖にお会いしました。その時のことは強烈に覚えています。まだ開祖が髭を伸ばされる前で、どちらかというと童顔なんですが、お話は非常に説得力があり引き込まれました。

内容は、どういう目的で少林寺拳法をつくったのかから始まり、日本人の団結と行動を問うものでした。「現状を皆はどう思うか? 少し腕っ節の強いものがいれば悪いことも見て見ぬ振りしてついていく、そういう烏合の衆ではなく、不正に対して怒り、だめなものはだめと言え、皆をいい方向へ引っ張っていけるリーダーになれ。同志が3人いればその組織は掌握できる、1割いれば日本の国をとれる」

すごいことを言う人だとびっくりしました。今までそんな話聞いたことありません。開祖のお話は允可状授与後に1時間あまりでしたが、あっという間に感じられました。

人にできるなら自分にも。指導者への道を進む
その後、武専(現・専門学校禅林学園少林寺拳法武道専門コース)に入りました。それがまた良かったですね。毎月、開祖のお話を聞けたんです。これは私の財産です。

指導者講習会も参加しました。旧道場では狭いため多度津の小学校の体育館で、3日間に渡って行われました。そこでは、中野先生、大西先生、田村先生、川上先生といった四天王と言われる先生方が皆の前で技を行い、開祖が解説をされるのです。私は若かったのでどんどん体を動かして体で覚えていきましたが、中にはメモばかりとる人もいて、開祖から「そんなメモばっかすな。体で覚え!」って怒られていましたね。時に、「ちょっと待て、お前上がってこい」と壇上に呼び出され、「今やってたことをやってみい」と注意も受けました。皆、一生懸命でしたよ。そんな皆の間を開祖は見て回られていました。講習会で開祖は「雑魚はいらん。指導者をつくりたい。少林寺拳法は指導者をつくったからここまで発展したんだ」と言っていました。

道院を出そうと考えるようになったのは、毎月の武専時で、道院長任命式を見ていたからです。見ているうちに自分もやってみたいという気持ちがふつふつ湧いてきて……人ができるんだったら私だってできると(笑)。それで、68年にここ田村町の土地を購入した際は、あらかじめ専有道場を建てるスペースを空けておきました。

私は最初から自前の道場を建てる気持ちでいました。時間の制約がなく自由に使えますから。ですから、何よりもまず道場を建てたんです。道場を建てるとすぐに鎌田智高松木太道院道院長(志をつなぐvol.19参照)が見に来ました。そして、「ええわぁ。わしも建てる」と(笑)。ですから鎌田先生とは道院のスタートがほぼ一緒です。今年、35年の勤続表彰も一緒に受けました。

この頃は1年の仮認証期間の状況を見て、正式認証となりました。まだ開祖がお元気な時で、仮認証を受けるとき、「1年ちゃんとやらなんだら取り消しになるからな」と言われ、「はい、頑張ります」と答えたのを覚えています。その半年後に、開祖は亡くなりました。

開祖のつくりたかった組織とは
開祖が亡くなられた5月12日は、夕方、水澤先生から電話がありました。あの頃は管長とお呼びしており、「管長先生の調子が悪いそうだ。すぐ行こう」と。水澤先生は車を運転されないので、すぐ迎えに行って多度津に向かいました。

公館の前で先生を降ろし、私は裏の駐車場に車を止めて後から公館に向かいました。すると水澤先生の顔つきが変わっていたんです。どうですかと聞くと「だめ、だめ」って2回……それですぐ分かりました。

奥に入ると、古い道院長の先生方が開祖の周りを囲んで、皆、茫然としていました。「お弟子さん方、体を拭いてあげなさい」とお医者さんに促されて、皆で、脱脂綿で体を拭いてあげました。私も右足を。あの時の気持ちはなんとも言えません。悲しいとかそういうのを超えて、本当にこれは現実なのだろうかと……。その時、開祖を拭いた脱脂綿は今でも大事に持っています。aun_tunagu_vol26_03

これは開祖が亡くなる約1年半前、79年元旦に、ご挨拶に伺った時の写真です。開祖と水澤先生と、少人数で撮った写真はもうこのくらいしか残っていません。その下は本山職員の方たちと。濃い紫の着物を来ているのが今の総裁です。

古い先生方は元旦にご挨拶に行くのが慣例でした。私も水澤先生と伺い、開祖のお話を聞かせていただくのが楽しみでした。満州での体験などいろんな話の中で、一貫していたのが、「日本人は砂粒みたいな民族だ。金剛禅少林寺を昭和の梁山泊にしたい」というお話でした。何か事件が起こると、中国人は皆ワーッと出て来るが、日本人はパタパタと窓を閉めてしまう。団結することを知らない、日本人くらい砂粒のような民族はいないとおっしゃっていました。開祖は、普段はそれぞれ違った生活をしていても、何かあった時にはパッと拠り合い助け合える、同志的なつながりで結ばれた組織をつくりたかったのです。実際に、そうおっしゃっていました。

だから「いい友達をつくれ」と言っていました。「俺が困った時は助けてくれ、お前が困った時は知らん。これではいい友達はできんぞ。本当の友達ができた時は、一つ財産ができたと思え」。絆で結ばれた関係づくりが大切なのです。

また、いくら人を助けたいと思っても、ただ優しいばかりで力がなければ何もできません。だから力愛不二、力をつけないといけない。力は使い方なんです。

続けることで信頼を築く
私は少林寺拳法で人生が変わりました。道場も自前で建てると周りからの信用が違ってきます。

それでも最初の頃は、柄が悪くなっては困るという声がありました。そこで、私たちの団体を理解していただくために、毎年、体育館を借りて演武発表会を行うことにしました。私は地元の県議・市議の両先生宅を訪問して、道院の顧問をお願いし、また地元の小学校体育館で高松南道院演武発表会を開催することを伝えて、大会長、副大会長をお願いしたところ、両先生は快くお引き受けくださいました。お陰様で第1回大会は、高松東道院の皆様の心温まるご協力をいただき無事終えることができました。以後、毎年発表会を実施することができ、20周年の記念演武大会はリーガホテルゼスト高松で盛大に行うことができました。

aun_tunagu_vol26_04また、1996年からは、小規模作業所「Do!やまびこ」へのバザー物品の寄贈活動を行っています。寄贈活動は2007年から朝日園で継続しています(写真右)。近隣の道院・支部にも呼びかけをして、布教活動および社会貢献活動の一環として行っています。

1997年4月〜2012年3月末の15年間は、香川県少林寺拳法連盟の理事長を務めました。理事長時代、次の二事業を多くの方のご支援ご協力をいただき成功させることができました。1999年、少林寺拳法創始50周年を祝す行事の一環として訪中したこと、それから2003年、香川県立丸亀競技場で開催された第16回全国スポーツレクリエーション祭の開会式で700人超の拳士で大演武を行ったことです。生涯忘れることのない思い出に残る行事となりました。

2015年3月は毎日新聞のコラム「私の元気の秘密」に掲載されました。様々な分野で活躍している75歳以上の後期高齢者を取り上げているとのことで、毎日新聞の記者から取材を受けたんです。また、前年の2014年には、憲法記念日知事表彰をいただきました。一つのことをずっと続けていけることはありがたいことです。毎年、いいことが続いています。

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2007年、道院にて

指導者の原点を忘れるな
60歳の定年退職後は、思う存分少林寺拳法に時間を使ってきました。もう本当に、精一杯少林寺拳法のために時間を使えたことに、満足感でいっぱいです。幸せです。

15年ほど武専の教員も務めましたが、一生懸命やらせてもらいました。北海道から九州、審判講習で沖縄も行きました。出張は1回も穴をあけたことがありません。自分の分だけでなく、都合が悪くなった他の人の分も引き受けました。武専は、非常に勉強になりました。私は中学校しか出ていないんですよ。それも、当時の中学校は勤労奉仕が多く、今のようには勉強は多くありません。ですから、たくさん本を読み自分なりに勉強して講義に臨みました。

開祖の思いを伝えることが使命だと思ってきました。開祖存命中の全国指導者講習会の資料はみなとってあります。

1969年の講習会資料に、「自己の確立もなく、指導理念もなく、信念も識見も十分でないものが、もし少林寺拳法を単なる格闘技として技術だけを教え、これを職業として弟子をとるならば、これはすでに宗門の行としての道ではなく、かつての大道芸人(マイウーシー)と同様の技芸を売る芸人に過ぎないあわれな存在に身を落とすだけである」とあります。これは今でも私自身、自分に言い聞かせて誓いとしています。

ただの職人になってはいけない、少林寺拳法は社会の指導者への道です。開祖も常々言っていました「原点を忘れるな」と。原点とは、指導者としての基本姿勢のことです。具体的には、一匹狼ではだめ、賢く強く人を引っ張っていける群狼になれ、信条で唱和している「同志相親しみ相援け相譲り」ということです。

死ぬまで修行。少林寺拳法を続けてきて本当に楽しかった。今も楽しんでいます。