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vol.42 本田演昭 中導師大範士八段 64期生

2015/09/06

教えをもとに行動し、お金で買えない宝物を得る
本田演昭 中導師大範士八段 64期生

1936(昭和11)年8月、愛媛県西条市生まれ。高校卒業後、地元製材所に就職。39年間勤務の後、10年ほど解体業に従事する。現在は農業を営む。54年7月、西条道院に入門。69年、壬生川道院を設立。多くの役職を歴任し、07年より名誉本山委員に就任。現在に至る。

本田演昭 中導師大範士八段 64期生

18歳の時、友人に誘われたのがきっかけで近藤道文道院長(故人)の西条道院に入門しました。学校に行く前、授業後、夜と一日3回、道院に通ったほどのめり込みました。しかし、そこで学んだのは人としての生き方でした。単に技の魅力だけではなく、開祖や近藤先生の人間的な魅力が大きかった。法話を聞くうちに自然と感化されていったというのが事実です。もう日常生活そのものが少林寺拳法。職場や地域で認めていただけたのは、教えをもとに地道な活動をしてきた結果だと思っています。家を出て、少し歩く毎に誰かから挨拶されます。女房から、「これはお父さんの宝物ね」と言われています。

開祖の人の育て方

私は18歳の時、近藤道文先生(故人)の西条道院に入門させていただきました。まだ少林寺拳法が創始されて7年目です。よく開祖も言われていましたが、拳法というと憲法と間違われる、まだ名前を知られていない時代でした。

20歳の頃、西条道院にて

20歳の頃、西条道院にて

きっかけは、高校の同級生に「少林寺拳法はボクシングに空手に柔道をミックスしたようなもん、おもしろいからいかんか」と誘われたことです。いざ道場に行ってみると、突いたり蹴ったりするだけかと思えば最初に鎮魂行がある、これはすばらしいとのめり込んでいきました。

道場へは1日に3回通っていた時もありました。まず朝稽古して、高校の授業が終わるとすぐ道場に行き、道院長に「学生が何しよるさっさと帰れ」と怒られて一旦家に帰って、ご飯を食べてまた晩の修練に出て……そういう時期もありましたね。

しかし、少林寺拳法の技そのものも魅力的でしたが、何より開祖や近藤先生の人間的な魅力が大きかったです。開祖や近藤先生の法話に自然と影響を受けていきました。初めて開祖の法話をお聞きしたのは公開演武会です。草創期、開祖は布教のための公開演武会を方々でされていました。高校生の私には現在の日本情勢などのお話は訳が分かりませんでしたが、すっかり魅了されていました。

初段二段の昇段試験は、開祖が直々に、四天王と呼ばれる高弟の先生を連れて西条道院に来て試験してくださいました。試験が終わり、高弟の先生を先に帰すと、「わしは今晩近藤のとこへ泊まる。晩、あいとるものは遊びにこい」と言われました。そして、皆で近藤先生のお宅で一緒になって鍋をつついたものです。食事の中で、人生の在り方などを教えていただきました。

aun_tunagu_vol27_03あるとき開祖に、「ご飯をついでくれんか、少しだぞ」と言われたにも関わらず、少し多めによそったことがあります。すると、「わしが少し言うたのが聞こえんかったか」と言われました。「聞こえました」と言うと、「これは日本人の悪いクセ、お前が悪いんではない。人間素直になりなさい。わしは遠慮ではなく少しと言うた。お前はわしが遠慮しとる思うて少しよけいについだんだろうが、人としての誤りぞ」と話されました。

また、近藤先生に連れられて本山に行った時は、「おい近藤、明日帰るんだったら昼から帰れ、わしが食事を準備しておくから皆連れてうちにこい」とお声掛けくださいました。そうして、開祖のご自宅で開祖夫人の料理をごちそうになりました。そこでまた人生観を語ってくださるんです。それが開祖の人の育て方でした。どっぷりと少林寺拳法に漬かり、自然と生き方を変えられていきました。

仕事で生きる少林寺拳法

仕事は、少林寺拳法を続けたいばかりに町工場に務めました。少林寺拳法があるときは休ませてもらうことを条件に採用していただき、そこには39年間務めました。その間、常に教えをもとに行動することを心がけ、休む代わりに他の時間で一生懸命働きました。その甲斐があって、私自身は特に少林寺拳法を宣伝してはいないのですが、少林寺拳法があるときは、職場の人から「ああ、お前に休んだらいけんとは言えん。行ってこいや」と言っていただけるようになり、武専の出張で地方に行く時にはお小遣いをいただくこともありました。

事情があってその会社が閉鎖した時も、「来てくれませんか?」と次の職場からお声掛けをいただくことができました。そこは10年務めました。そこは建設関係で大企業から仕事を受けて現場で働くことが多いのですが、現場監督からもずいぶん信頼していただきました。私の知らないところで周りの人に、「本田さんという人は何か違うけど、どういう人なの?」と聞いていたそうです。少林寺拳法の七段で道院長をしていると聞くと、「どうりで、何か違うと思った」と話していたそうです。作業場から事務所まで徒歩20分くらいかかる広い敷地の中で働いていたのですが、事務所から作業所までわざわざ車で迎えに来てくれたこともありました。そして事務所に入ると、「本田さん帰ったんでコーヒー入れて」って。本当によくしていただきました。

開祖が常々言われていた、信用と信頼は違うという話を思い出します。特に私から少林寺拳法の宣伝をしたわけではないのですが、普段の行動で信頼を築いていけたのかなと思います。少林寺拳法そのものが仕事に生きることを実感しています。

その後、農家になり、頼まれて農協組合の役員も務めました。「学歴があって頭のいい人がたくさんいる中で、私みたいな人間が務まりません」と断ったのですが、「いや、本田さんの生き方を見せよったらそれでええんじゃ」と言われ引き受けました。問題を先送りにせず、何時間も堂々巡りの意見を交わして結論を出せないでいるところをこうしたらどうですかと提案したり、トラブルがあるとすぐ出掛けて行って解決してきたり、そういう行動力が他の理事にはものすごく魅力的に感じるようです。これも全部、少林寺拳法で学んだことです。少林寺拳法が自分を育ててくれたおかげと思っています。

開祖と近藤先生の親心

開祖にはよく技を掛けていただきました。公開演武会でも技の説明をする時など開祖に呼ばれ、直々に手を取っていただいたものです。開祖の技はもちろん痛いんですけど、目の前がチカッとなったらもう飛んでいます。一瞬痛いのですが、後遺症は残らない、気付いたらもう投げられた後という感じでした。

1960年頃、公開演武会

1960年頃、公開演武会

四段の試験の時は「わしの目にかなわなかったら、一つの技を1時間でも2時間でもやるぞ」と言われ、その通り、一つ一つ技をじっくり見ていただきました。そして、「今日は実技試験に時間とりすぎて学科をやる時間がなかった。もういい、1週間以内にレポート書いて送れ」と言われ、どちらかというと勉強を苦手にしていた私でしたがほっとしましたね(笑)。朝9時〜夕方4時までみっちり実技試験でした。その時、私は「師範先生、最後に質問よろしいですか」と手を挙げました。その頃は師範先生とお呼びしていたんです。管長と呼ばれるようになったのはその後です。「拳士同士ではわりと逆技がかからんのです。馴れ合いのところもあるんじゃないですか」。すると、「どのへんでもいいからわしを掴んでこい」と言われました。そこで単純に手を出したところ、開祖に触ってもいないのに気付いたら転がされていたんです。「分かりません」「ああ、何回でもやったる」、ドタバタドタバタ、何度も投げられました。投げておいて開祖はニコーッとされるんです(笑)。ますます少林寺拳法に魅了されましたね。一時期、柔法に没頭していたこともあります。

無事に四段をとると、近藤先生から「お前はうちにおったらそのままの人間になるで、出て行け。新居浜と壬生川どちらかに行け」と言われました。壬生川は現在、東予という地名になっています。当時、女房の出身が壬生川でしたので、「先生、壬生川に行きます!」と壬生川道院を設立しました。ですから本当は道院を設立する気なんて毛頭なかったんですよ。「先生、道場はどないしたらいいんですか?」「それもお前が見つけてこい」。かわいい子には苦労させろという先生の親心だったんですね。

八段の允可状授与式にて、近藤先生と。

八段の允可状授与式にて、近藤先生と。

道院を出して、門下生と暴力団の間で問題が起きた時も、近藤先生に相談すると、「おう、やばい組との問題おきたの。行って死んでこい。骨は拾いに行ってやる」と言われました。その言葉に腹が据わりましたね。正面から暴力団に話に行ったところ、向こうも上の人が出てきて、「おい、少林寺拳法の先生が言うのが正論じゃないか」と穏便に事が納まりました。

実はその時、近藤先生は、陰で様子を見ていてくれたんです。折に触れて先生の親心を感じました。

少林寺拳法さん使ってください

修練場所は、門下生にお坊さんがいたので、そのお寺をお借りしてスタートしました。その後、寺が改築のために使用できなくなった後は、警察署の道場、農協倉庫など転々とし、修練場所確保に苦労しました。警察署の道場は、たまたま警察次長が少林寺拳法を知っていたため、使用させていただくことができました。農協倉庫はすでに空手が使っていたため、当然、最初は断られましたが、直接出向いて話をしたところ、数日後には向こうから、「師範殿、お話を伺って十分理解いたしました。どうぞお使いください」と手紙をいただきました。門下生からは、「先生、よく空手の道場へ交渉にいきましたね」と言われましたが(笑)。

この農協倉庫がスーパーマーケットになるため使えなくなった時は途方に暮れましたね。何度も東予市に交渉に行くのですが、ろくに取り合ってもらえません。困っていたところ、懇意にしていた西条市の市長が東予市長に話をしてくれたのです。すぐ東予市長室から電話がかかってきました。そして、「少林寺さんの練習場所、確保しましたから」と中学校の格技場を使えることに……。本当にありがたかったです。地道な活動でつくった人間関係のおかげです。

こんなエピソードもあるんですよ。その格技場の管理をしている先生は、私より年上で、柔道五段で愛媛県柔道連盟の理事までされている先生でした。あるとき「本田、お前、どのような教育しよんぞ」と言われたことがあります。何か悪いことでもしたのかドキッとしましたね。すると、「わしは怖い先生というイメージがあるだろう。それにも関わらず、わしの言う事をきかんやつがこの中学校に一人おるんや。ところが、少林寺拳法をやりおると聞いたので、本田に言うぞと言うたら、とたんに土下座して本田先生には絶対に言わんでくださいと言うんや」、そんなこともありました(笑)。

90年代、練習風景

90年代、練習風景

また、その先生に働きかけて東予市に体育協会を設立しました。ちょうど開祖が「体協を設立せよ」と言っていた時代です。少林寺拳法、柔道、剣道、バレーボール、軟式野球、この5種目が設立委員会となりました。その後、格技場もある立派な市民体育館が完成し、落成式の時には各武道団体が呼ばれて演武をしました。少林寺拳法は最後に演武をしたのですが、スピード感があって迫力満点の演武に、絶賛の拍手でした。しばらくすると、体育館の館長が、「少林寺拳法さんがこの格技場を使わなかったら、格技場の値打ちがないんじゃき、少林寺拳法さん使うてください」とわざわざお願いに来られました。すでに修練場所があるのでと断ったのですが、何度もお願いに来てくださるので、ありがたくお借りしました。

今は空き家を改造した専有道場があります。ご近所さんは協力的で、「うるさくして申し訳ありません」と言うと、「いや、こちらが元気をもらっています」と言ってくれます。感謝するばかりです。

自分に素直に生きよ

もう日常生活そのものが少林寺拳法です。女房からは、「お父さんは少林寺拳法やったばかりに家はあまり裕福にはなれなかった。でも、お父さんはお金で買えない宝物を持っている」と言われます。私と一緒に歩くと、少し進む毎に誰かが挨拶してくるからだそうです。何十年経った今でも、東京など遠くに行った拳士が電話をくれることがあります。こうした人のつながりが、女房から見ると宝物なのだそうです。

生活のすべてが少林寺拳法中心でしたが、家族全員が理解をしてくれたことが幸いでした。練習日に私が家にいると、子どもたちから「あれ、どうしたん」と言われるほどです(笑)。家族で出掛けるときも、「お父さんのスケジュールが優先」と言って、私の都合を真っ先に聞いてくれます。

33歳で壬生川道院を設立し、いつも順風満帆だったわけではありませんが、家族や拳士、保護者、協力者の皆さんの理解のおかげで布教活動に邁進できました。また、私が地域でいろいろな役を頼まれて務めている姿に、拳士は僕らも努力しようと思うようです。ちゃんと見てくれているんですね。教えをもとに地道な活動をしていくことで、自然と社会に認められる存在になっていくのだと思っています。それが社会貢献につながっていくと思います。

開祖の「自分自身に素直に生きよ。それを実践せよ」という言葉を大切にしてきました。今の私があるのは少林寺拳法のおかげです。ありがとうございます。

※97年5月11日、宗道臣デー活動。地域の高齢者から和紙やしめ縄の作り方などを学んだ。

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