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vol.43 長田正紀 少法師大範士八段 186期生

2015/11/05

教えを垂れて人を導く、心に響いた恩師の言葉
長田正紀 少法師大範士八段 186期生

1944(昭和19)年2月、山口県防府市生まれ。高校卒業後、大阪のベニヤ会社に就職。64年、大阪住之江道院に入門。65年、会社を辞めて桂自衛隊に入隊。京都別院に転籍し、京都別院と桂自衛隊少林寺拳法部の両方で修行に励む。67年、自衛隊を退職し、本山へ入山。山門衆として修行に打ち込み、開祖の薫陶を受ける。69年6月、山口西京道院を設立。70年、再び本山に戻り、約1年、専従職員として働く。再び山口に帰郷後は、総合警備保障会社に就職。本山委員をはじめ多くの役職を歴任し、2014年4月より名誉本山委員に就任。現在に至る。

長田正紀 少法師大範士八段 186期生

山門衆時代、未熟な私たちをご指導くださったのは三崎敏夫先生でした。先生のご指導は、各々の個性を生かすというもので、心に響くそのお言葉は、驚きとともに私の視点と思考を大きく変えてくださいました。山口西京道院設立の際、「門下生は道院長についてくる。君がしっかりしていたら良い人材が集まって来る。反対ならいい加減なやつしか寄ってこない。立ち居振る舞いに気を付けなさい」と言われました。開祖も三崎先生も、短い言葉に教えの真髄が詰まっており、大変分かり易く具体的に教えてくださいました。これからも、開祖と、それこそ身近に寄り添って教えてくださった三崎先生に報恩の誠を尽くします。

aun_tunagu_vol28_02群を抜いていた少林寺拳法

私は9歳の時から柔道をやっていました。その時の柔道は無差別で、体が小さかったけれども一生懸命頑張って、高校生の時は県大会でベスト8までいったことがあります。あと一歩で国体の選手でした。しかし、高校卒業後に就職で大阪に出て、上には上がいることを知りました。それで柔道をあきらめ空手を始めました。

ある日、大阪の難波球場で開かれた武道祭に、空手の選手として出場しました。そこで初めて少林寺拳法を見たんです。その迫力、華麗さに驚きました。風が強い日でしたが、その中バーッと出てきて、ビシバシと音がする突き蹴りに、投げ固めと、とにかくすごかった。他と全然違うんです。きれいごとではない、実践的な演武に圧倒されました。

しばらくすると会社の近くに大阪住之江道院ができたので、即、入門しました。この時、大阪住之江道院の第一期生は私ともう一人だけ。実は、他にもたくさん希望者がいたのですが、他団体の妨害にあって、ほとんどの人が入門式の会場にたどりつけなかったんです。道場の入り口まで、道の両側に他団体の人間がずらーっと並び、人をかき分けたどり着くことができたのは二人だけでした。aun_tunagu_vol28_03

そんな状況でしたから、道院には大阪中の指導者が応援に来ており、法衣を着た人がたくさんいました。そして、早く私たちを強くしなくてはならないという訳で、一人に有段者が4、5人つき、最初から乱捕りでした。また、その頃の科目表は、ガリ版刷りでした。これはいっぱい書き込みができて、使いやすかったですね。

この頃は見習いの次が3級でした。昇級試験は大阪大正道院に受けに行きました。そして、3級をとると、街へ練習に出掛けます。実践練習として弱いものいじめをする悪い奴を懲らしめるんです。「負けそうになったら助けるから」と先輩に言われ、一人で向かっていくのですが、先輩は離れたところから見ているだけで全然、助けてくれません、ウソばっかり、(笑)。そして、道場に帰ったら反省会。ああいう時はこうしたらいいと、実践に基づいた技を教えてもらいました。時には衆敵闘法もありました。とにかくそれが楽しくて、やみつきになっていきました。

人で溢れていた京都別院

その後、会社をやめ自衛隊に入隊しました。関西大会のパンフレットで桂自衛隊少林寺拳法部が週6日も練習しているのを知り、京都に行く事を決めました。桂自衛隊少林寺拳法部の支部長だった牧野清先生(志をつなぐvol.5)には、その後たいへんお世話になります。

京都では、京都別院と桂自衛隊少林寺拳法部と両方に通いました。京都別院はとにかく人がいっぱいで、道場内に入りきらないほどでした。庭にも人があふれ、鎮魂行では、着座すると前の人の背中に膝がつくほど、外で立ったまま行う人もいました。しかしそれでも、こんなにも人を惹き付ける少林寺拳法に自分も所属していると思うと嬉しかったですね。

2年後、さらに本山へ行きたいと思い、自衛隊を退職しました。京都別院の原田公臣別院長(故人)に相談し、本山で住み込みの修行をすることにしたのです。意気揚々と本山に荷物を全部送り、退職金5万円を持って行きました。この頃の5万円は今の10倍です。ところが、うまく連絡がいってなかったのです。断られ、途方に暮れて思わず泣き出してしまいました。見かねた開祖夫人が「三崎先生に相談しなさい」と言ってくださり、なんとか入れてもらえることができました。そして、1968年、本山専従門人(本山に住み込みで修行する少林寺拳法の指導者を目指す門人。山門衆とも呼ばれた)としての修行が始まりました。aun_tunagu_vol28_04

私たち山門衆の生活の面倒を見てくださったのが三崎先生ご夫妻です。奥様には、食事を始めさまざまにお世話になりました。また、未熟な私たちをご指導くださったのが三崎先生でした。三崎先生のご指導は、各々の個性を生かすものでした。心に響くそのお言葉は、驚きとともに私の視点と思考を大きく変えてくださいました。

なお、先ほどの連絡の行き違いの件では、牧野先生が三崎先生にものすごく怒られました。牧野先生は全く関係なかったのですが……。これまでにも何か私が何か問題を起こす度に怒られていたのが牧野先生。本当に迷惑ばかり掛けて、牧野先生には今でも頭が上がらないんです。

師の愛情aun_tunagu_vol28_05

本山では毎日修行に打ち込みました。皆、すごく強かったですよ。この一番上の写真は開祖の前で見学者に演武を披露した時のものです。このとき私は二段で、相手は後に尾張八幡道院長となる山下秀明君(故人)です。技でめったに人を褒めることがない開祖から、「まるで白衣殿(嵩山少林寺)の壁画を見ているようだ」と言葉をいただき、感激でしたね。山下君とはその後も演武を組んで、いろんな場面で披露しました。下の写真(左)はNHKのテレビに出演した時、その隣の写真は栗林公園での演武です。aun_tunagu_vol28_06aun_tunagu_vol28_07

 

 

 

 

 本山での修練は乱捕りが主でした。私はこれまで実践において連戦連勝、技にはかなり自信がありました。しかし、背の高い体の大きな後輩が次々入って来て、おまけに強い人ばかりですから、叩きまくられていました。すっかり自信をなくし、体が小さいものは勝てない、才能がないから郷里の山口に帰ろうと思ったことがあります。そんな時に私を救ってくださったのが三崎先生の言葉でした。

aun_tunagu_vol28_08山門の部屋で一人泣いていると、三崎先生がやってきました。「自分には才能がないから国に帰ろうと思います」と私が言うと、「おおそうか、そらしょうがないの」とあっさりした答え。「先生、小さいものはどんだけ努力しても大きいのには勝てんのでしょうか」「おお、だめや。小さいものは大きいものにはなんぼ頑張っても勝てんのや」。がっくりきてまた泣いていると、「そらそうと、お前にもいいとこあるんやで。自分で自分のいいとこ気がつかんか」と言われました。「いや、分かりません」「よう考えてみよ、なんだ」と問いつめられ、思わず答えたのが「顔ですか」。三崎先生はわっはっはっと大笑いし、ボコーンと私の頭をはたいて次のように言いました。「お前のええとこはそこよ。人が思わんことを言う。技でも人が考えつかんことをやる。練習方法もそうだ。とにかく考え方がすごい。それに、お前のいいとこはスピードだ。俺でもお前のスピードに辟易するときがあるんだ。そこを生かせ。びっくりさせてやれ。お前は人をびっくりさせる能力がある」。それからの私は、乱捕りでも何でも、人がびっくりすることばっかりを考えていましたね(笑)、毎日が本当に楽しかった。この写真は山門2階の部屋です。

aun_tunagu_vol28_09日本で鳴らない太鼓が外国で鳴る訳がない

本山では2年間修行しましたが、実は入山から半年して、持ってきた退職金5万円が底を尽き山を降りようと思ったことがあります。最後にと心に決めて出場した大会には、郷里から母親を呼びました。演武相手は山下君。すると、初めて大会で優勝することができたんです。親は泣いて喜び、私もびっくりでした。

数日後、開祖に「もうちょっと頑張ってみんか」と声を掛けられました。正直に生活費がないことを話すと、「心配すんな、ポケットマネーを出してあげるから」と言われました。驚いていると、「お前は見所があるやつだ」。もう涙が溢れて声になりませんでした。開祖もそれを見て、一緒に泣いてくださって……、それからは寝る間も惜しんで稽古しました。

開祖には金剛禅式結婚式もしていただきました。そして、2年後、最初の約束通り、郷里に帰って山口西京道院を設立したのです。

それは本山専従門人になる最初の面接でのことです。私は「指導者になって海外に行きたい」と夢を語りました。しかしその時、開祖から言われたのは、「日本で鳴らない太鼓が外国で鳴るわけがない」でした。そして、「外国に行ったら体の大きいのがいっぱいおる。その小さな体じゃ通用せんぞ。それよりもまず日本で通用するようになることだ。山口に帰って道場を出すつもりになってやれ」と諭されていました。ですから、私は山口で中心人物になるという気持ちで、地元の防府市ではなく、山口市に道院を設立したんです。aun_tunagu_vol28_10

ところが、山口に帰って1年も経たないうちに、開祖からお声が掛かり、今度は本山に専従職員として務めることになりました。これがその写真です。ちなみにこの年の全国大会は最優秀賞をとっています。

専従職員に対する開祖の教育は、それは厳しかったです。私の誤解もあって約1年で山口に帰ったのですが、その後、開祖がずっと私のことを心配してくださっていたことを知りました。開祖の訃報を聞いたときは、大声で泣きました。aun_tunagu_vol28_11

道院から羽ばたく社会の指導者

山口で道院を設立するにあたっては、高校時代の恩師にお世話になりました。ワルだった私が指導者に成長したというので、先生はすごく喜んでくれて、練習場所を見つけ頼んできてくれたのです。そうして八坂神社の御旅所を借りることができ、もう45年以上、ずっと専有で使わせてくれています。

最初の入門者は、弟と高校時代の後輩の二人でした。泥だらけの床を毎日一生懸命に磨きましたね。入門式の時は本山で一緒だった山下君、私の両親、親戚、それから八坂神社の宮司さんが来てくれました。そこで私は「今はたった二人の門下生だけど、これを何十倍何百倍にもしてみせる」と宣言しています。

その言葉通り、いいご縁を大事にし、おかげさまでこれまでに門下生は何千人にもなります。しかも、国会議員や医者や町の名士など、優秀な人がたくさん集まってきてくれています。少林寺拳法のおかげでいいご縁が巡ってくることに、感謝するばかりです。

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大学合宿での指導

話す事が苦手だった私が法話をできるようになったのも、いい人との出会い、ご縁のおかげです。私は話が上手な大西要先生(元金剛禅総本山少林寺副代表)に憧れていました。山口に大西先生が来た時、思い切って悩みを打ち明けると、「いや、長田さん、あんたの話はおもしろいよ」って言われたんです。「なにも演説することはないんだよ。自分の思いが正確に伝わればいいんだから。かっこよく話そうなんて思わない方がいい。それに私も長田さんの技術に憧れていたんだ」。その言葉で変わることができました。

いいご縁、いい結果を得るためには、今を大切にすることです。過去は変えようがないけれど、今、この時を一生懸命取り組めば、未来は必ずいい結果が出ます。開祖もそう話していました。「今」、これは仏教の基本であり、一番大切な事だと思っています。

私が一番大切にしている開祖の教えは「メッキでいい」というものです。「メッキでも一生はがれなければ金で通る、あきらめちゃだめだ、いいかっこせいよ」と話されていました。小さなこともできない人に大きなことができるわけがない、小さいことの積み重ねが大きな結果になってくるんです。開祖の志「人づくりによる国づくり」「理想境実現」という気が遠くなるような言葉も、小さな一歩からなんです。一歩一歩が大切なんです。

厳しさと美しさを兼ね備えた理想の指導者aun_tunagu_vol28_13

私は柔道、空手、ボクシングと、ずーっと何かしら武道や格闘技をやってきて、少林寺拳法をはじめたのも、最初のきっかけはとにかく強くなりたい、その一心でした。今、少林寺拳法と出会って本当によかったと思います。

しかし、本当の意味で少林寺拳法が分かったのは、道院を設立してからです。山口西京道院設立の際、三崎先生に「なあ長田、今から君は道院長になるわけだが、大切なことを一つだけ伝えるから、よ〜く聞いて、困った時に思い出すようにしなさい」と言われたのが次の言葉です。「門下生は道院長についてくる。君がしっかりしていたら良い人材が集まって来る。反対ならいい加減なやつしか寄ってこない。立ち居振る舞いに気を付けなさい」。aun_tunagu_vol28_14

開祖も三崎先生も、短い言葉に教えの真髄が詰まっており、大変分かり易く具体的に教えてくださいました。寸鉄人を刺す。短い言葉で肺腑を抉るような言葉は心の中にしっかり根付き、何度も思い出し反芻させられ膨らんでくるのです。ただ、それも私が開祖のことを本当に好きで、尊敬していたからこそだと思います。振り返って自分と比べてみると、いつも至らなさを感じ、冷や汗が出ます。いつか開祖のようになりたい。大勢の人から尊敬されたい。でも、開祖は偉大すぎるから、ちょっとずつ近づこう。目の前にいる門下生に、最低でも好かれるよう、まず好かれ、できれば尊敬されるようにしようと思って心掛けてきました。「教えを垂れて人を導く」だ……。

私にとって三崎先生は厳しさと優しさを兼ね備えた理想的な指導者でした。三崎先生の少林寺拳法は美しかったです。少林寺拳法の形そのものの美しさと、修練を積み重ねた人にふさわしい整えられた身体や凛とした厳かなたたずまいは、まさに内面からにじみ出るものでした。今も、三崎先生は私の理想像です。今も私は、身体の不具合なく、実に自然と体が動きます。これも三崎先生のご指導の賜物と感謝いたしております。

これからも、開祖と、それこそ身近に寄り添って教えてくださった三崎先生に報恩の誠を尽くしたいと思います。