vol.44 「全ては自らのことなり」

2016/02/01

「命のある間は死ぬのではないのだから、死ぬ死ぬ、とむやみに言うものではない」
「人間死ぬまでは負けたのではない。生きている間は何度でもやり直せる。諦めるな」
「人間は、ダーマの分霊を受けたすばらしい存在である。自らの可能性を信じることで、他人も認めることができる」
「搾取、支配のない理想社会、理想境となる社会をつくるのは、人、一人ひとりの質をよくすることである」
開祖は、このような言葉で我々に生き方を投げかけられました。
少林寺拳法の技法とともに、これら教えの原点を真しん摯しに解釈し、実践することが、行としての少林寺拳法であると、入門35年以上の今になって、やっと実感し自省できるようになった気がします。そうです、まだ、「そんな気」という段階です。
人間の思考は、人それぞれに違います。当たり前といわれそうですが、だから、自らの意志で、見て、聞いて、感じて、そして考え、多感であるとともに気づきがなければ、真実はなかなか見えないものであることも、この年になってやっと感じます。
私の入門は17歳。多感な時期でした。そんなときに開祖の言葉に触れ、心を動かされました。そして、人生とともにじっくりと教えを考えてきました。
今まで続けた動機の原点は、開祖の数々の言葉が心に響いたことにあります。そしてこれは、勇気の源でした。
開祖は開創期、入門した若者に、「私と一緒に、この日本を立て直し、誇りある国家に変えようではないか」と熱く語られたといいます。敗戦国の惨めさを目の当たりにして、開祖は、まさに「死ぬまでは諦めない」を自らが実践されましたが、我々は、教育手段としての少林寺拳法であることを忘れてはなりません。
このような開祖との出会いが、多くの若者の人生を自己確立と自他共楽の道に大きく舵かじを切らせ、それぞれが、その人生が有意義であることを自覚したと思います。
「布教者(指導者)の原点はここにあり」で、布教者の基本は、個々にさまざまな「気づき」を促し、それらの自覚により、どう生きるかを自分自身の責任において決定する力を養わせることだと思います。
天国も地獄もこの世にあると、私は、祖父や父からもよく聞きました。
そして、それを社会運動として実践していた少林寺拳法という「単なる武道やスポーツでない」組織の目的に感銘を受け続けてきました。
資格や立場が少しずつ上がる中で、見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえ、新たな発見や気づきは多くなりました。
そんな中で、「真純単一」にこの法を考え、それをどのように実践すべきかとも考えるようになりました。
少林寺拳法は、死ぬまで続く行であり、その根本は「全ては自らのことなり」です。
自らに問いかけ、自らに恥じない生き方を貫きたいものです。
なかなか簡単なものではないですが、「忽こつ然ぜんと変わることに大胆となれ」、これも開祖の言葉です。
変わる、変われる勇気を持ち続けたいものです。
(文/松本 好史)