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vol.44 加藤義秋 大導師大範士八段 71期生

2016/02/01

道院は家族たれ
加藤義秋 大導師大範士八段 71期生

1938(昭和13)年8月、香川県綾歌郡生まれ。55年、綾南道院に入門。いくつかの変遷を経て72年に綾南道院を引き継ぐ。74年には日本少林寺武道専門学校(当時)の派遣教員として各地を回る。その縁で佐戸政直道院長、坂東邦伯道院長(ともに故人)の薫陶を受け、整法・羅漢圧法の第一人者に。本山委員をはじめ多くの役職を歴任し、2011年4月より名誉本山委員に就任。現在に至る。

加藤義秋 大導師大範士八段 71期生

少林寺拳法との出会い
父親が柔術家であったことも影響し、中学時代は柔道をやっていました。戦後間もないころでしたから、とりわけ昇段などはしていませんでしたが、当時地域の試合では負け知らずでした。「お前は段をとらんでも黒帯クラスじゃ」と指導者の先生も言うてくれてましたね。のんきな時代と場所でしたから、中学卒業後も仕事をせず、近所の悪い連中とつるんではお酒を飲んで喧嘩に明け暮れる毎日でした。いわゆる愚連隊というやつです(笑)

入門当時(右)

入門当時(右)

昭和29年のことです。17歳だった私は、父親と一緒に近所の小学校体育館へ出かけました。
「少林寺拳法」という団体が公開演武をしにくる、というので見に行ったのです。当時は娯楽の少ない時代でしたから、大勢の人たちが訪れてきていたのを覚えています。
武道、格闘技の一派らしいという評判だったので、私たち柔術・柔道のほかにも、剣道やら空手やら、腕に覚えのある地元の武道家たちがたくさん来ていました。
それは見事な演武でした。田村先生をはじめとする高段者のキレのある演武の数々は、まさに「華麗」の一言です。皆、しんとなって見とれていました。そして開祖が一言。
「どうですか、腕に覚えのある方は、どうぞ上に上がって試されませんか。」
場内にはたくさんの武道家がいましたが、誰も上がりませんでした(笑)。
そして開祖が続けて言うのです。「我々はいつまでも敗戦国民ではありません。私たちと一緒に修行をして、ともに日本を良くしていきませんか」と。
感銘を受けました。私以上に父が(笑)。
「義秋、少林寺拳法をやらんか。」の一言に背中を押され、入門することになったのです。

お寺の境内で練習

お寺の境内で練習

絶対に負けるなよ
開祖は当時、香川県内、一市一町に道院を置きたい、という思いが強くあり、私が住む地域にも、三好直(すなお)先生(故人)が綾南道院を開かれたばかりでした。公開演武もそのキャンペーンの一つだったようです。
当時、三好先生ですら初段か二段だったように思いますが、「ほかの団体になめられてたまるか」の一心で、たいへん激しく厳しい修練の毎日でした。乱捕りが中心です。
12~3人が集まった修練でしたが、ほぼ武道経験者で構成され、さながら異種格闘技戦の様相でした。それぞれの得意技で挑むのですが、最後は少林寺拳法の技で負けるのです。
私が得意の背負いで投げようとすると、くるりと腕巻をかけられてダーン。痛かったですね(笑)。
その男は過去、柔道の試合で私がずっと勝っていた相手でしたが、「加藤、柔道ではお前に負けたが少林寺拳法では負けんぞ」言われてね。悔しかったからよう練習しました。

草創期のメンバー(後列右から2番目)

草創期のメンバー(後列右から2番目)

三好先生ご自身が公務員なのにこれまた荒っぽい先生で、「よそでも喧嘩には絶対負けるなよ」言われてね。ですから基本的に、少林寺拳法に入門する前と毎日は変わらずですよ(笑)。仕事もせずに昼間は喧嘩。夜は練習。そして翌日練習の成果をためすためにまた喧嘩…。
公開演武で開祖が言われたのとずいぶん違うな…思いながらも、それでも楽しくやっていました。とにかく力がないとバカにされる時代でしたから。
定期的に来られる内山滋先生も同じことを言われていましたが、今思えば両先生が仰られていたのは、「負けるなよ」は「勝てよ」ではなく、「何があっても負けと思うなよ、人生に負けはないぞ」ということだったのかなと思います。

道院は家族同然のお付き合い
三好先生が仕事の都合で道院を続けられなくなり、宮本義雄先生が後を引き継がれました。宮本先生はとにかく練習熱心な方で、お住まいの綾上町から多度津の本山までずっとバイクで通われて、結果三台も乗り潰してしまうような先生でした。この宮本先生がもう、仏さんのようにやさしい先生で、とにかく人を大事にする方でした。
釣りの好きな方だったのですが、魚を釣っては、門下生を自宅に呼び、よく手料理を振るまっていただいたものです。お子さんがお嬢さんしかいらっしゃらなかったので、私たちを息子のように思ってくれていたのでしょう。本当に家族同然に接していただけました。
また、私も含め門下生の多くは農家で、このころになるとさすがに喧嘩の頻度も低くなり、農業に精を出すようになるのですが、昼間は暑くて仕事をする気が起きない。そこで道場に集まり修練をするのです(笑)。不思議とその時は暑さが気にならないのですね。そして日もかげってきたころ、田畑に戻るのですが、その昼間の練習にも宮本先生はよく付き合ってくださいました。地元郵便局長で、比較的時間を自由に使えたからでしょうが、このとき道場が使えず、先生に迎え入れていただけなかったなら、我々はまた暇を持て余し、再び喧嘩の毎日に戻っていたかもしれません。
この宮本先生の温かいご指導が、今の私の道院運営の背骨になっています。

道院長研修会

道院長研修会

「頑張る」ことで芽生える人の縁
私が30代になったころ、宮本先生がご病気で急逝されました。宮本先生は常々私を後継者に、と考えられていたご様子でしたが、人格者の宮本先生に対して愚連隊上がりのような私が跡を継ぐのはあまりに恐れ多いことでした。
結果、香川県庁にいらっしゃった岡利大先生(故人)をお招きし、廃止の危機を逃れたのですが、岡先生も多忙になられ、道院を継続することが難しくなりました。またも廃止に直面し、それだけは避けたいという思いから、私が跡を継ぎたいという思いを表明しました、その時にはもう、道院には私以外に3名しか籍を置いていない状況になってしまっていました。74年の時です。
当時、道院として運営するには門信徒20名以上の在籍が通例でした。

道院長任命当時

道院長任命当時

しかし、開祖が道院長研修会の場で、「綾南道院は現在4人しかいない。しかし加藤が頑張りたいと言うておるので、特例として認めたい。」と、大勢の道院長がおられる中で言ってくださったんです。もう頑張るしかないでしょう(笑)。

自宅の板間の8畳が新生・綾南道院の専有道場でした。
とにかく誠実に、門下生の一人一人を家族の一員として迎え、修練に励みました。すると一人・二人と人伝てに門下生が増えていくのです。道場が狭いので何人かを別の部屋に待たせ、1時間交代で修練をしましたが間に合わず、慌てて道場を新築しました。18畳の道場でしたが、こちらも間もなく手狭になりました。
実は道院長になって以来、とにかく地域の役に立とう、人の役に立とうと地元の活動にも貢献していました。その繋がりもあり、町長や町会議長には新春法会などの道院行事に毎回お呼びし、金剛禅の活動に理解を得ていました。また地元の大きな電力会社の役員にも道院顧問になっていただくことができました。

皆で起ち上げた専有道場

皆で起ち上げた専有道場

後援者へ感謝の気持ちを送る

後援者へ感謝の気持ちを送る

仲間で建ち上げた道場、みんなの道場
そんな矢先に専有道場の広さの問題が起こったものですから、専有道場を新築しようかどうか迷い、悩んでいた頃でした。偶然にも当時、ちょうど地域の小学校

が改築されたり、電柱が木製からコンクリート製に打ち変えるという時期が重なったりしたことから、町長や電力会社役員から、廃材になる解体建築資材や木製電柱を使わないかというお声がけをいただいたのです。
願ったり叶ったりの、ありがたいお申し出でした。しかし建築屋に頼む費用がありません。
すると門下生たちが、「先生、休みの日に集まって、みんなで建てましょう」と。
これが今の道場です。壁板も小学校の講堂の床板でできています。建材以外の不足は市町村共済住宅基金で賄いました。

道院合宿

道院合宿

新設道場にて

新設道場にて

「これはみんなでつくった道場やから、皆で好きな時に使えよ」と言って、いつも開放しています。道院行事が終われば宴会会場にも早変わりします(笑)。

専有道場はいいですね。本当にいつまでも使える。
修練が終わっても、みんな勝手に事務所の冷蔵庫からジュースを出してきて、遅くまでしゃべっています。「いい加減いね(帰ってくれ)」とも思うんですが、宮本先生時代に私たちが甘えていたことを思い出すと何も言えません(笑)。
「うわ、日が変わってもた(午前0時を回ってしまった)。先生そろそろ帰ります。」なんてことが今でもしょっちゅうです。

坂東芳先生と

坂東芳先生と

坂東邦伯先生に教えていただいたこと
道院長になって2年後、武専の派遣教員に任命されました。この時に徳島道院長の坂東邦伯先生(故人)と親しくさせていただいていたのですが、「本部の先生として地方の指導に行ったはいいが、技が掛からんかったら恥ずかしいぞ。圧法併用技が大事ぞ。」と仰っていただいて、羅漢圧法や整法を一緒に研究することになりました。もともと柔術家の父に活法や整復の技術を教わっており、急所の位置や圧し方に興味はありましたから大変勉強になりました。ただ、本当に勉強になったのは人とのお付き合いの仕方です。
坂東先生からは「お世話になった人にはさいごまで大事にしろ」と常々言われました。この「さいご」というのは「最期」までです。
付き合いにはいろんなレベルがある。あいさつを交わす程度から、お茶を飲む、食事をする、色々あるのでしょうが最後は「お骨を拾い合える仲」です。
拾い合う、というのは少しおかしいですが、以前、体を悪くして、大きな手術をしたときのことです。坂東先生がわざわざ徳島からお見舞いに来てくださったのですが、その後快癒して坂東先生にお会いした時、「あの時のお前の痩せた顔見たら、あぁ、こいつの骨を拾わないかんな、思うた。」と冗談交じりに仰っていただいて。実際には逆転してしまったのですが、まさに坂東先生とはそんな仲だったのです。本当に良き人に巡り会えました。

道院は家族

道院は家族

「道院は家族」
私の人生は、本当に人に恵まれていると思うのです。
開祖に始まり、三好先生、宮本先生、岡先生…。宮本先生のご紹介で奥村正千代先生や佐戸先生、坂東先生にも可愛がっていただきました。また一緒に練習した先輩、後輩の仲間たち、そして入門してくれた門下生たち…。彼らがいてくれたからこそ、今の私があります。
私にとって出会ってきた人たちは親であり兄弟であり、息子・娘たちで、まさに家族同然です。家族のために、恥ずかしくないように生きてきました。結果、地元の地域安全推進委員を拝命したり、駐在所友の会の会長を引き受けたりしています。春・秋の交通安全キャンペーンのお手伝いも道院で欠かさず行っています。若いころは愚連隊で警察のお世話になりそうだった私が、今では警察のお手伝いをしているのです。おかしいでしょう(笑)
すでに、道院後継者と目している者がいるのですが、彼にも「道院は家族ぞ」と強く伝え、そして実際にそのように皆に接してくれています。
幸い綾南道院では門下生の数もあまり減ることなく、一定数、常に在籍してくれています。募集活動もこれまで一度もしたことがありません。
それでも絶えず人が訪れてくださるのは、私たちが誰かれ分け隔てなく、皆を「家族」として受け入れているからだと思うのです。

演武

演武

指導

指導

アイドルになった愛弟子・和泉美沙希さんと

アイドルになった愛弟子・和泉美沙希さんと