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vol.45 田原正晴 大導師大範士九段 76期生

2016/04/01

人の喜びを自らの喜びとする生き方
田原正晴 大導師大範士九段 76期生

1939(昭和14)年8月、岡山県生まれ。55年に三井造船株式会社に入社、長年勤めた後に退職し、専門学校を経て鍼灸師となる。
55年三井造船少林寺拳法部に入部。61年玉野道院(88年に岡山光南道院に名称変更)設立。65年全国で初めての試みとしてスポーツ少年団を設立。技術研究委員、本山考試員、本山審判員、岡山県少林寺拳法連盟理事長など数多くの役職を歴任し、2010年より名誉本山委員に就任、現在に至る。

田原正晴 大導師大範士九段 76期生
昭和30年代の写真

昭和30年代の写真


岡山から本部武専に通った修行時代

(本部武専:当時の日本少林寺武道専門学校、のちの専門学校禅林学園)
 私は中学を卒業して、三井造船に入りました。1955(昭和30)年、世の中不景気の真っただ中、15歳の時です。その独身寮では、寮生を対象に、義若道恵(故人)先生が少林寺拳法を指導されていました。当時100人ぐらいが練習していたと思います。
 本部武専へは、会社での養成期間として4年間通った定時制高校を卒業した後に通うようになりました。三井造船での稽古が火・木・土、そして、水・金が本部武専での稽古でした。
 本部武専の日は、午後9時に授業が終わり、引き続き午後10時まで居残り稽古をしました。開祖もその時間にしばしば指導をしてくれました。午後11時に多度津を出る汽車に乗り、深夜1時頃に高松から国鉄連絡船で午前2時頃宇野に着き、駅から自転車で帰り、寝床に入るのは午前3時でした。
 三井造船の寮では、当時麻雀が流行っていました。私の入っていた部屋は麻雀部屋となっていましたが、私はそんなことをする間もなく、私が寮に住んでいるのに麻雀を知らないのは、寮の七不思議の一つでもありました。
 余談ですが、私はこれまで賭け事をしたことがありません。負けたら自分が嫌な思いをしますし、勝ち逃げをしても相手に嫌な思いをさせますから。
 そんなこんなで、多いときは月に10回ぐらい通っていました。

道院の設立
 1961(昭和36)年に京都別院が設立されるにあたり、開祖から「助教として手伝ってくれ。」と言われました。しかし、貧しいから働きに出たという家庭の事情もあり、おふくろの涙には勝てず、引き受けることは出来ませんでした。「ならば、地元でやってみろ。わしが後ろ盾になってやる。」という開祖の言葉で、22歳の時に玉野道院を設立しました。玉野道院の1期生はちょうど京都別院の1期生と同じ153期生となります。
 開祖がやれというときには、人を見て言っていたように思います。技ができるかどうかではなく、前に出られるかどうか、その人の積極性をかっていました。皆と一緒にやればいいんだと。自分はその1つ前を進む。人より一歩だけ前に出られればいいんです。何もしなければ教えることがなくなりますから、そのために本山に帰って学び、学んだことを皆に伝えてきました。
 玉野道院の設立5周年の記念演武会には開祖がじきじきに駆けつけてくださいました。そして、臨席されていた市長はじめ来賓の方々にこんこんとお話しをしていただき、以後、地元での教育関係者への少林寺拳法に対する理解が深まるきっかけとなりました。
 1970(昭和45)年には、当時住んでいた住居を取り壊して、専有道場を建てました。道場には大変恵まれました。1988(昭和63)年には3階建の建物を専有道場としましたが、この時には、ある人から裁判所へ行ってみると良いと言われ、担保物件になっている不動産に目をつけたわけです。もちろん、道場建てるために門下生から寄付してもらったわけでもなく、後援者もいません。今、使っている道場にしても全部自分で払いました。
 近所の方や保護者の方で、「少林寺拳法さんは道場も建て替えて、儲かってますね。」と言われる方もいました。その時も「指導料は一切もらっていません。全部、私財です。何なら一週間私の後に付いてきてください。」と収支を見せながら言ったところ、「先生、どうも失礼なことを言いました。申し訳ありませんでした。」と言われるぐらいでした。
 そのように言われた当時、月・水・金・土と稽古があり、夜遅くまでやっていたのですが、それでも私は道衣を着て皆とわあわあとやっている時間よりも他のことで時間取られることの方が実際多かったんですよ。
 1988年に購入した建物を専有道場として長く使っていましたが、あまり道場らしくなかったので、ローンが終わり次第、現在の道場を道院設立40周年を記念して、2002(平成14)年3月に完成させました。

道院設立記念日の餅つき

道院設立記念日の餅つき

1988年に購入した専有道場

1988年に購入した専有道場

少林寺拳法の面白み
 私がどうして、こんなにも続けられるのかといったら、それは不細工(不器用)だったからなんです。そして非常に合理的な技に魅せられました。
 最初からうまくできません。ところが少林寺拳法の場合は、下手な人ほど手をかけて教えてくれます。普通だったら放っておかれますが、少林寺拳法は違います。それも先輩が稽古台になってくれます。そこが大変素晴らしいところなんです。人が10遍やったら我、100遍、1000遍とやるのですが、それもすべて相手がいてくれるからこそできることなんです。だからこそ、人と和することが大事になってくるんです。
 これは玉野道院設立5周年の冊子に書いた言葉ですが、当時、私はすでにこのように考えていました。
 「少林寺拳法とはとてつもない面白いものである。その面白味は、人と和する面白さであり、徐々に道を極める面白さである。さらに誇張して云うならば、運動神経と大脳、つまり人間の全智、全能の可能性に対する、挑戦する面白さである。」と。田原先生_06 田原先生_05
 「うちの子は運動もあまり得意ではなく、何をやってもうまくいかないのですが、大丈夫でしょうか。」と電話で問い合わせて来られる方がいます。
 そんな時、私はこう言います。「その子、自分で立つことができますよね。だったら、問題ありませんよ。あなたは最初から車に乗れましたか。最初はできませんでしたよね。車を運転できるようになってから、通れるかどうか分からないところをいちいち降りて、幅を測って確認して『これなら行ける』となってから曲がりますか。たとえ見えなくても、無意識にやってますよね。」最初からうまくはできません。そこを先輩たちが自ら稽古台になって教えてくれます。そこが素晴らしいと思っているから、私は続けられたんです。
 私は人によっては教えすぎと言われるかもしれません。皆には早く私の域に達して欲しいと思っています。それから本人が自分の持ち味を出していけばよいのです。

勉強せい
 長年勤めた三井造船を1973(昭和48)年に退職しました。なぜかと言ったら、それは開祖がことあるごとに「勉強せい」と言っていたからです。当時は会社が終わればすぐ道場でしたし、忙しくてテレビを見る間もありませんでした。そして、字を書くのも苦手で、年明けに本山に年賀の挨拶をしに行った時も代筆してもらうぐらいでした。
 職場では給料をもらうことよりも、色んな人と接し、色んなことを教えてもらえることの方が大事でした。ところが、ある時持ち場が変わり、人と接する機会が減り、これではいけないと思いました。
 そして、香川県にある鍼灸の専門学校へ3年間通うことになりました。その間も道院を続けながら専門学校に通いました。午前10時から午後3時まで専門学校で学び、学校の前後で家内の兄の仕事を手伝いました。
 専門学校卒業後も、引き続き義兄の仕事を手伝い、鍼では開業せずに口コミでやっていました。最終的には、義兄の仕事の手伝いを辞め、開業するのですが、夕方からは道院がありましたし、あまり人が多く来ても困るので看板はださずに、口コミで来る方だけを治療していました。
 治療では、人と接し、人と話をしながら、大体ひとりあたり1時間ぐらいかけてやっていました。話の中で少林寺拳法の話題に触れ、時には開祖法話のテープを流しながら行ったこともあります。そうやって、人と話しをして、知識を深めていくという風でしたね。
 また、字を書くことについては、1972(昭和47)年に習字の先生が道場を貸してもらえないかと言ってきたことがあります。それなら私も教えてほしい、それに近所の子たちでやりたいという子もいましたので、週1ぐらいで道場を開放して私も一緒に習うようになりました。
 そういったこともあり、私が字を書く時には、今でも主に筆を使って書いています。道場のいたるところに書いてある言葉は、私がいいなと思った言葉、心に触れた言葉を書いて張り出しています。
 そのほかにも、専有道場は、教区、小教区ができた2002(平成14)年から小教区長研修会を行うなど、積極的に活用を図ってきました。

田原先生が書いた言葉1

田原先生が書いた言葉1

田原先生が書いた言葉2

田原先生が書いた言葉2

田原先生が書いた言葉3

田原先生が書いた言葉3

2002年小教区長研修会

2002年小教区長研修会

 

 

 

 

 

 

人間の体は小宇宙
 鍼の仕事は70歳までやりました。
 開祖は「人間の体は小宇宙」と言っていましたが、まさにその通りなんです。風邪は風と邪という言葉で成り立っていますが、邪気が体に入ることで風邪を引くわけなんです。つまりは、陰と陽のバランスが崩れると病気になるということです。それを私は鍼の治療を通して実感しました。
 またどれだけ健康そうに見えても死ぬ人は死ぬし、どれだけ重傷を負っても助かる人は助かる。実際に、私の次男が高いところから落ちて生死の境を彷徨いましたが、脈を取った時に、「これは助かるな」と直感的にわかりました。その次男はしっかりと回復し、元気に生きています。このように人の体というのは1つの宇宙であり、その働きによって生きているわけです。

無くて七施(ななせ)
 開祖に出会い、少林寺拳法を通して私が教えていただいたことは「出すことによって生きられる」ということではないかと思います。人は自分の持っているものを惜しみなく外に出すことで、生きられます。普通は自分の中に、何でもかんでも取り入れて自分のものにしてしまいますが、惜しげもなく与えることが大事です。
 無くて七癖という言葉がありますが、無くて七施です。
 何も持っていないと思っていても、自分が持てるもので施せるものはあるんじゃないでしょうか。技を教えてあげることもそうですが、知っていることがあったら惜しげもなく教えてあげる、困っている人には手を差し伸べる、親が元気に生きている内は、ときどきは顔を見せてあげるなど、探せば何かしらあるはずです。知恵がある人は知恵を出せばよいし、力がある人は力を貸してやればよいのです。
 人に喜んでもらって、それを自分の喜びとすることですね。やはり、人に喜んでもらったら嬉しいですよね。言葉は違うかもしれませんが、開祖からはそう教わったように思います。
 以上、色々と話しましたが、私は道楽でやっています。人に伝える以上は教えすぎと言われるぐらい教えます。折角だから早く身に付けてもらいたい。そうやって私は自分の持っているものを今後も出していくつもりです。

開祖との貴重な写真1

開祖との貴重な写真1

開祖との貴重な写真2

開祖との貴重な写真2