vol.46 皮肉骨髄の訓戒

2016/06/01

 達磨大師は中国の梁の時代に正法を伝えようとはるばるインドからやってきて、武帝との有名な問答で理解を得られず、梁都を去って魏の国へ行った。よく達磨図に、葦の葉に乗って川を渡る姿が描かれているのは、このときのことだという。達磨大師の弟子に慧可、道育、尼総持、道副という四人の弟子がいた。有名な「皮肉骨髄」の訓戒というのがある。四人の弟子たちに、修行によって得られた仏教の本質・禅の要旨を問うたときの問答は、次のようであった。
 「道副は『私は、文字にとらわれず、また文字をはなれないで、仏道を行じます』と答えると『汝はわが皮を得たり』と達磨はいう。
 尼総持がいった。『私が理解しておりますところは、愛欲も怒りもしずまって、よろこびは、仏国をみるようです』
 『汝はわが肉を得たり』と達磨はいう 。
 ついで道育が『物を構成する地水火風の四大も、因縁がつきますと空になり、またすべての事物は、色受想行識の五蘊が仮に和合してできているので、もともと有ではなく、一法として得べきものはありません』
 『汝はわが骨を得たり』と達磨はいう。
 最後に慧可が、ただ黙って達磨に礼拝して、もとの位置につく。それをみて、『汝はわが髄を得たり』と達磨はいう。
 『むかし、如来は正法眼を迦葉大士に付し、転々としてわたしに至っている。いま。お前に 付すから護持しなさい』と達磨は慧可に『法信とする』といい、伝法の偈を示した」(『禅とは何か』水上勉著より引用)
 これらの訓戒から、達磨大師が慧可を後継者としたのは、釈尊がある日、弟子に説法しているとき、一本の花をひねって見せたが、誰もその真意が分からず沈黙していたときに、摩訶迦葉だけがにっこりと笑った。釈尊は、言葉で言い表せない奥義を理解できる者として、彼に伝法の奥義を授けた。この拈華微笑(ねんげみしょう)の故事から、他の三人が論を立て、悟りの中身を言葉で伝えようとしたのとは対照的に、慧可が黙って達磨に礼拝して元の位置についたことは、以心伝心を尊ぶ禅の不立文字(ふりゅうもんじ)の真髄を表している。慧可の命懸けの入門や、他の弟子との問答も、達磨大師が伝えようとした核の部分が後の祖師たちに相承されたが、五祖・弘忍のときに六祖・慧能を法嗣としたとき、二派に分かれた。神秀の禅が、やがて北宗禅といわれて、「漸修漸悟」を標榜し、慧能の禅は南方方面へ広がって、「頓修頓悟」の禅を標榜するようになった。
 北禅の宗風を伝承している少林寺拳法は、一段一段、階段を上がるように修行を積み重ねていく「漸々修学」という修行方法であり、勝負や試合によって優劣を決めたり、他人との比較によって決めるものではない。したがって、修行の評価はあくまで修行した法の質と量と、それに伴う精神的修養度を試験により検定して定められることになっている。
 そのためには、その資格に到達したからそれでよしとするのではなく、その教えを社会の中でどう実践していくかにかかっている。
 日常生活の場面で、金剛禅門信徒としてふさわしい生き方をしているだろうかと、行動を通して自問してみることで、修行が自分の精神の根底にどっしりと根づいているのか、知識だけなのかも見えてくる。
 達磨大師の教えを受け継いだ弟子たちと同じように、開祖が伝えようとした真髄を会得すべく精進し、その教えをさらに、これから続く人たちに向けて伝えていかなければならない。
(文/飯塚 久雄)