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vol.46 西村建夫 大導師大範士九段 83期生

2016/06/07

拳士としての誇りを持て
高知南国道院 道院長 西村建夫

1936(昭和11)年2月、高知県生まれ。55年に陸上自衛隊に入隊。59年、㈱鈴江農機製作所に入社。20年間務めた後、安田火災海上保険㈱(現 損保ジャパン日本興和㈱)を経て保険事務所を開業。2007年まで務める。ほか、保護司、教育委員等、地域の役職に就き、現在南国市体育協会顧問を務める。
56年本部道院入門。59年鈴江道院を設立し、その後、後免道院長、南国北陵道院長、土佐山田道院長を務める。99年専有道場を建て、南国北陵道院を高知南国道院と改称し現在に至る。高知県教区長、本山委員はじめ多くの役職を歴任し、2007年より名誉本山委員に就任、現在に至る。

高知南国道院 道院長 西村建夫

本部道院に入門するまで
 私は小学校4年生の時に終戦を迎えました。それから、中学、高校と進みました。高校は畜産科のある農業学校に入り、同好会で空手をやっていました。農業高校を卒業後は、高知にはあまり仕事がなかったということもあり、1955(昭和30)年に発足したばかりの自衛隊に入り、松山、次いで善通寺に移りました。仕事しながら空手を続けたいとも思っていましたが、自衛隊に空手はありませんでした。
 当時は麦飯が主流でしたが、自衛隊では、白米を毎日食べられることに驚きました。その代わり、1年ぐらいは教育もあって自由に外出はできませんでした。外出できるようになってからのことですが、自衛隊の先輩が紹介者(当時、入門するには紹介者が必要であった)となってくれたということもあり、本部道院で入門し、修練に通うようになりました。
 少林寺拳法には当身だけでなく逆技も教えもありました。開祖が、私の拳にタコがあるのを見て、「突いてみい」と言われ、突いたところ、小手投でひっくり返されたことがありました。また、教えも大変素晴らしいと思いました。終戦までは、防空演習ばかりでまともな教育が受けられる状況ではありませんでしたし、民主主義教育が始まっていたとはいえ、まだ日が浅く、「「(信条第二)祖国日本を愛し…※」という文言に愛国心を感じ、自衛隊で教わることよりも上だなと思いました。
 ※信条第二は1997年6月の改訂まで「我等は、日本人として祖国日本を愛し、日本民族の福祉を改善せんことを期す。」と唱和していた。少林寺拳法が海外に普及し、特定の国、民族名ではなく、それぞれの拳士にとって共通の表現が求められるようになったため、開祖の思いを変えることなく、なおかつ世界のすべての拳士が志を一つにして唱和できる表現へと改訂され0た。

1956(昭和31)年本部道院にて

1956(昭和31)年本部道院にて

1956(昭和31)年 善通寺自衛隊グランドにて

1956(昭和31)年 善通寺自衛隊グランドにて

鈴江道院の設立
 本部道院では正味三年間修行し、正拳士四段まで允可を受けました。自衛隊では、本部道院での修練が定時制高校と同じ扱いとされ、作業服と半長靴で外出し、琴参電車で30分かけて通っていました。1中隊120人いる内の10人ぐらいが一緒に道院に通いました。野営訓練、行軍などの長期の訓練以外は、毎回練習に行きました。当時の本部道院は大人がほとんどで、他に、国鉄の職員、警察官がいて、道場で動くとぶつかるぐらいの人が練習していました。
開祖には「先兵となって、指導者になって地元帰って広めていけよ」と、金剛禅運動をこれからどんどん広げていこうという意気込みがありました。そして、自衛隊を4年の満期で辞め、隊長からも「残留せい」といわれましたが、私は開祖の言葉を選びました。
 1959(昭和34)年に地元に帰り、後免町にいるおばのところに身を寄せました。おばから剣道の先生でもあり、内科医でもある川田先生の紹介で、仕事を紹介してもらいました。農機を製作する会社で、ちょうど農業が人力から機械化に向かう時代の中で、多いときで600名ぐらいの従業員が働いていたこともあります。
 従業員の福利厚生のために、少林寺拳法をやってほしいということで、昼休みに筵を敷いて、公開演武を行い、柔法と剛法の演武をやって人を集めました。そうして会社内に作ったのが、鈴江道院です。道場も会社が用意してくれ、人が増えてからも道場を拡張してくれました。最初は会社の人だけでしたが、その内に社員だけでなく、地域の方々も入門を希望するようになり、後に名称を後免道院に変更しました。

鈴江道院の1期生と本部道院にて(前列中央が西村道院長)

鈴江道院の1期生と本部道院にて(前列中央が西村道院長)

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人生の変わり目 
 1970(昭和45)年からの2年間、私は別の者に道院長を交代していました。このとき、私は30代。人事を担当する責任ある立場になりました。部下よりも先に帰るわけにもいかず、仕事に専念せざるをえませんでした。そして、仕事と道院を両立することができずに道院長を交代していました。
 しかし、異動で部署や仕事内容が変わる人生、会社に使われる人生、果たしてこのままでよいのだろうか。いつまでもこのようなことを続けるのだろうか。自分のことは自分で選べるようでなければいけないと考えるようになり、復帰しようと決め、開祖に願い出ました。そうしましたら、開祖から直々に手紙が届き「いつでも帰ってこい」という返事がありました。とても嬉しかったですね。「しかし、人間は己れこそ己れのよるべ。これからしっかりやれよ。捲土重来でがんばりなさい」という言葉がずしんときましたね。開祖があのとき温かく迎えてくれたから、こうして今まで道院長を続けることができたんです。
 仕事の環境が変わり、復帰できる見込みができましたので、1973(昭和48)年に再度道院長としてスタートしました。後免道院は、田中智先生に交代していましたので、現在の高知南国道院の前身となる南国北陵道院を設立しました。その後、近隣道院長の要請もあり、土佐山田道院の道院長もやってくれということで一時期、兼務したこともありました。
 人生の中では、周囲との関係もあり、自分の思い通りにならないことも確かに多いものです。サラリーマンでずっと会社に仕えて終わるよりも金剛禅運動で人づくりをすることが大事だということに気付いたんですね。
1979(昭和54)年に会社が倒産しました。当時、まだ長男が大学生で、まだお金もいる大変な時期でした。生きていくためには、己れこそ己れのよるべということがしみじみわかりました。そして少林寺拳法を続けるには、自分で仕事を起こすしかないと考えました。そして、会社が倒産したのを機に、自営業を始めました。
きっかけは鈴江農機の庶務の時代に付き合いのあった保険会社の支店長から代理店をやってほしいという依頼があったことです。研修を受け、その後、保険事務所を開業することができました。また、少林寺拳法をやっていると、人と人との縁というのはあるなと思います。困った時に縁の力によって、仕事が見つかり、会社が倒産しても仕事には困らずに済んだのです。
もちろん、自営業と言えど、両立するのは大変でしたよ。私は両方に力を注いできました。手を抜いたら、人に信用されなくなりますから。そうやって、私は71歳まで仕事を続けることができました。

人生の転機となった開祖からの手紙

人生の転機となった開祖からの手紙

専有道場の建立
1999(平成11)年に現在の場所に自前の専有道場を建て、道院名称を高知南国道院としました。専有道場を持ったきっかけは、「いつまでも借りものの道場ではいけない」「しっかりとした拠点がないと真の金剛禅運動はできない」と感じたからです。
 専有道場は金剛禅運動の拠点として非常に重要です。専有道場があることで地域に対する社会的な信用も変わってきます。段位を持っているだけではだめで、やはり自分の拠点を持たないといけないと思います。
 道院は人を大事にし、一人ひとりと向き合うところです。
 小さい専有道場ではありますが、地域で一隅を照らし、道院へ行ったら話を聞いてもらえる、人生相談にも乗ってもらえる、地域の中の居場所をつくっていきたい、そんな道院活動をしたいと私はいつも思っています。一隅を照らす明かりかもしれませんが、煌々と照らしていきたいですね。そうしないと門下生は入ってきませんから。
 修練以外では、子ども達だけで、お化けやしきをやったり、水鉄砲を作って遊んだりもします。そして、皆で料理を持ち寄って教区の忘年会もやっています。
 道院では毎回、5分間法話を行っています。そのために今でもずっと新聞の切り抜きをして法話の題材としています。その中にダーマや金剛禅を交えて語るようにしています。
そして、拳士が誕生日を迎える時にはケーキを2つ買ってメッセージと一緒に贈っています。2つのケーキは両親の2つの命を意味しています。目には見えずとも感じることのできる、ダーマの働き、なぜ今の自分に命があるかを自覚させる良い機会になっています。

地域活動
 地域への取り組みとして、宗道臣デーでは、最近は自然公園の清掃活動をしています。昔は老人ホームへ行って、少年部が演武をしたり、お年寄りの方と握手したり、肩たたきをしたりしました。
また、個人の活動では、保護司、体育協会の会長も務めました。特に時代が平成に移ってからは地域への活動に力を入れてやってきました。
保護司の活動は、やることも多く、また社会の嫌な面もかなり見てきました。その分、やはり人は大事にしなければいけないと強く思いましたね。体育協会の活動は体育協会に入っていたからということもありますが、やはりそういう役が回ってくるということは、道院長というのが社会的に信用されているからなんです。

人づくりについて
 道院長を多く輩出してきたと言われますが、道院長になれとは口に出して言いませんでした。皆、本人がやりますと言って、本人がやりたいのならやらせようと、本人の意思を尊重しています。私自身、復帰している身ですので、人に強制するべきものではないと考えています。そのかわり、「苦労とは別に楽しみもあるからがんばりなさい」と言います。私のところからは自然発生的に道院長が生まれていったように思います。
直近では、2015年に宇都宮宏史副道院長が高知安芸道院を設立しました、一時期、級拳士の時に休眠しておりましたが、ある時ふと私の道院の看板を見て、復帰して続けられ、道院長となりました。
 なかなか道院長が育たないという声も聞きますが、やはり時間がかかるものです。一朝一夕に道院長は育ちません。約70年前に開祖が人づくりを始めたように、時間をかけて指導者を育てることが大事なんです。

 私は最近、80歳になりました。あと何年生きられるかという寿命はわかりません。しかし、晩年開祖はよく言っていました。おそらく1980(昭和55)年の2月頃だったと思います。「人間はいつ死ぬかわからないぞ。しかし、生きていることも確かだよな、君たち。拳士としての誇りを持って、今この時を大切に生きていけよ。」という言葉でした。煌々としていた開祖のあの目は今でも覚えていますね。
 高知を開拓したものの一人として、今後も世界の平和と福祉に貢献する人づくりをしていきたいと私は考えています。

修練には副道院長でもある宇都宮高知安芸道院長も毎回来てくれている

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80歳を超えた今も易筋行の指導に立つ

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