vol.48 修行の目的と手段

2016/10/01

 多くの禅僧の伝記を掲載している伝灯録に南嶽懐譲(なんがくえじょう)と馬祖道一(ばそどういつ)との問答が載っています。
 「道一がまだ悟りを開く前で、伝法院で学んでいるときのこと。彼は毎日、一生懸命座禅を組んでいた。そこを通りかかった懐譲禅師が聞いた。
 『お前は何を求めて座っているのか』
 『仏になろうと思います』
 懐譲禅師はどこからか煉瓦をひとつ拾って来て、道一が座禅している岩でごしごし磨き始めた。
 道一が不思議に思って聞いた。
 『一体何をなさっているのですか』
 『鏡を作ろうと思ってな』
 道一は吹き出した。
 『煉瓦を磨いたって鏡ができるもんですか』
 懐譲が言った。
 『座禅をしたとて、成仏できるものか』
 道一は瞬間、くらっとするものを感じた。
 『ではどうしたらよいのですか』
 『人が牛車を御していくとき、車が進まなかったら車をうてばよいのか、牛を打てばよいのか』
 懐譲が道一に言った。
 『お前は座禅を学んでいるか、それとも座った仏を学んでいるのか。
 もし座禅を学んでいるのなら坐禅は座る所にはなく・・・禅というのは、座って、心を静めることなのではない。静かだと思われるその静けさまでも打ち壊してしまわなければ、そこからも抜け出さなければ、その境地を得ることはできないのである。
 もし座った仏を求めているなら、仏は一定の形相ではない・・・仏はお堂の中に座っているようなモデルではない。森羅万象の世界、全宇宙を自由に駆使し、また自由に享受することのできる世界こそが仏の世界なのである。ゆえにお前が、座っている仏の真似をするならそれは仏を辱めることであり、座ることに執着するなら理に到達することはできないのだ。』(※1)
 この故事から目的のための手段、方法に夢中になってしまい、何のために行っているのかを見失ってしまったりすることの愚を気付かされます。
 少林寺拳法は布教の手段、目的ではないと開祖は言われます。
 「私がたまたまこの少林寺拳法と称する技術を布教の手段に使ったからして、その始めた動機も目的も理解しないで、ただ少林寺拳法の技だけ教えて、これで足りるという人が中にはあるのです。私はこれをこの際、徹底的に是正してもらいたい。(中略)要するに、技術を教えることが目的ではなく、人間を作ることが目的だったわけです。私が何を考え、何を目的としたかを理解せずして技術だけをとやかく言うことは、金剛禅の同志でもなければ、指導者でもないと言いたいのです』(※2)
 少林寺拳法創始の原点は鎮魂行のときの「教典/信条第四」に明確に示されています。
 「一、我等は、法を修め、身心を練磨し、同志相親しみ、相援け、相譲り、協力一致して理想境建設に邁進す」
 私たち金剛禅門信徒が目指す、「人づくりによる理想境づくり」なのです。
(文/飯塚 久雄)

 ※1悟りの瞬間 禅の奥義書「伝灯録」を解く 素空慈 塩田今日子訳 P176~P178引用
 ※2開祖法話「初心にかえろう」出典 あらはん1982年9月号