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vol.48 小池 靖彦 大導師大範士八段 176期生

2016/09/02

開祖の言うことに間違いなし
伊那道院 道院長 小池靖彦

 1942(昭和17)年9月、満州生まれ。65年名城大学理工学部卒業。その後、㈱大塩組を経て小池一級建築設計事務所に入社し、60歳まで勤める。
 大学3年生の時、創部間もない、名城大学少林寺拳法部に入部。卒業後、小泉支部、銀座道院で修行。その後2ヶ月本山で修行し、69年、長野県で第1号となる伊那道院を設立。
 長野中部道院道院長、信州大学少林寺拳法部監督、駒ケ根スポーツ少年団監督、本山考試委員、審判員、長野県少林寺拳法連盟理事長、武道専門コース教員、論文審査員ほか多くの役職を歴任。
 2004年より箕輪中部道院道院長も務め、2013年より名誉本山委員に就任、現在に至る。

伊那道院 道院長 小池靖彦

満州から日本へ
 私の生まれは満州です。1947(昭和22)年に、母と兄の三人で満州から引き揚げてきました。当時、私は5歳で、母のリュックに負われて日本に帰りました。運良く、日本に帰る船が来ていることを知り、乗り込むことができましたが、満州では多くの方が残留孤児となりました。また、日本に引き揚げてくるまで、当時の主食はお米ではなく〝こうりゃん″を食べているような時代でした。
 日本では、佐世保に着いてから、鈍行列車で東京へ向かいました。杉並区に祖母の家があり、2ヶ月ほど東京に住んでいました。その後、満州で生き別れた父と再会でき、バラックではありましたが、父が長野に家を用意しており、家族4人で住むことができるようになりました。私の父は開祖と同じ年に生まれましたし、日本に引き揚げてきた年も1年しか違わないことも、私が少林寺拳法を始めた動機になっています。
 私は体が小さかったこともあり、小学校4年生ぐらいまではまともに歩くことができませんでした。運動会では皆がゴールしているときに、まだ半周程度しか走っていないぐらいで、引揚者ということもあり、いじめの対象にもなりました。しかし、ある程度体力が付き始めると、相撲の本を買ってきて研究し、私をいじめていた子を投げ飛ばしてからはいじめられなくなりました。
 そして、小学校の時は剣道、そして高校生の時には柔道をやりました。柔道では、  1年生にして試合に出させてもらうほどでしたが、当時の柔道は、体重の階級別がなく無差別であり、次は別のものをやろうと考えていました。

少林寺拳法との出会い
 大学へは自ら進んで入ろうとした訳ではありませんでした。父は建築屋で、2つ上の兄は日本大学の建築学科でした。私は航空自衛官の幹部候補生の試験を受けて合格していましたが、父からの勧めと「学費は心配するな」という言葉で、急遽、試験を受けて、名古屋にある名城大学に入学しました。
 そして、私が3年生の時に、1つ上の先輩がたまたま少林寺拳法部を創られ、19  63(昭和38)年に入門しました。場所は校舎の屋上を使い、トイレをきれいにして更衣室として使っていました。屋上でしたから、受け身の練習もコンクリートの上で行いました。それでも、当時は愛知県内には、他に1校しか少林寺拳法部がなく、隣の三重県を入れても3校しかありませんでした。翌年の3月には第1回の東海学生大会が行われましたが、本来5人の乱捕りの団体戦も人数がいなくて、各校3人ずつの出場でした。
 また、在学中は本部合宿にも参加し、開祖ともお会いしました。私が学生の頃、開祖はお元気で、直接手をとって教えてくれたこともありますし、特に大学生を大事にしてくれていました。開祖が自分達を見てくれているというのは大変嬉しかったです。

本山での修行時代
 大学卒業後、父からは「修行してこないかん」と言われていましたので、東京で建築関係の仕事に就きました。入ってすぐは仕事に慣れなければいけないし、距離的な問題もありましたので、すぐには転籍しませんでした。その年の秋に、日刊スポーツで少林寺拳法の道場が紹介されているのを見つけ、そこで修行を継続することができました。
 東京では5年間働き、父からの「帰ってこい」という声で長野に帰ることになりました。長野に帰る時には道院を出すつもりでしたので、その前に本山でしっかり修行しておきたいと考えていました。しかし、ずっと本山に居続けることもできませんでしたので、2ヶ月と決め、開祖の了解を得て、本山でお世話になることになりました。
 本山では、新井先生が入所した頃で、仁王門(山門)に住み込み、昼間は事務、夜は本部道院で稽古、帰ったら錬成道場で12時迄修練しました。三崎先生ご夫妻にもお世話になり、仁尾の三崎先生の道場で稽古することもありましたので、今でも帰山するときにはご家族を訪ねています。
 開祖は学生達には優しかったですけど、山門にいた人たちには厳しく接していました。また、世代によっても開祖の厳しさには温度差があり、私たちの時は、三崎先生達が入った頃よりは優しかったんじゃないかと思います。

長野県で初の道院を開設
 長野県が排他的な土地柄であることを開祖もご存知でしたから、「一生懸命やれば必ず道は開ける」との激励を受けて長野県伊那市に戻り、県下では初となる道院を開設しました。
 始めから道場があったわけではなく、最初は建材屋の2階を借りてスタートしました。時には、雪が舞い込む中を、人が来るのを1人で待ったこともあります。さらには、流言飛語で足を引っ張られるようなこともありました。
 道院の1期生は数人しか残りませんでしたが、それでも、ぶつかって行こうという思いで活動を続け、徐々に人が増え、1972(昭和47)年には、自ら設計した専有道場を建て、多い時で門信徒が140~150人になり、時間を2部に分けなければならなくなることもありました。専有道場は、大きな梁を床下に2本通しているため、40年以上経った今でも丈夫で、壁も二重にしているため、冬もヒーター1つで十分です。
 人を増やすには努力が必要です。特に新聞に定期的に取り上げてもらうなど、マスコミは効果的です。チラシは毎年5,000部刷っています。すぐに効果がなかったとしても、毎年続けることで、長野県でも認知度が上がってきました。何でもこれだと思ったことはやってみないといけないと思います。
 仕事では、長野に帰ってからは、兄と共に家業を手伝いました。東京にいた時には中々できませんでしたが、勉強して1級建築士の資格を取ることができました。当時、伊那市では兄と私を含めてもこの資格を持っているのは3人だけでした。職場では30人程の職人が働いていましたが、私は営業から設計、施工、現場管理とすべての工程に関わっていました。
 昼間は仕事をし、残業が必要な時には、道院が終わった後に仕事場に戻って必ず埋め合わせをするようにしていました。朝の7時には従業員がやってきますので、その時には仕事場にいなければなりませんので、働いていた時の睡眠時間は短いものでした。

自ら設計し、建てた専有道場 1996年の写真

自ら設計し、建てた専有道場
1996年の写真

よう頑張ったのう
 そうして、開祖が亡くなる年、1980年の1月の新春法会において、道院長勤続10年の表彰をいただいた時には、名前も覚えてくれていて、壇上で開祖から「よう頑張ったのう」と声をかけていただき、大変嬉しかったことを今でも覚えています。
 開祖に何かお返しできるものはないかと考えていましたが、開祖が、りんごが好きだということを聞き、伊那のりんごを開祖に贈りました。伊那のりんごは蜜入りの甘いりんごで、開祖は大変喜んでくれました。

県内での浸透
 伊那は南信地方になりますので、増やしていくためには、中信、北信へ拠点を置こうと、長野中部道院(現在は、佐治木光夫道院長)を設立しました。その後、松本、塩尻へと広げていきました。そのために、道院で門信徒を育て、育てた門信徒が道院を運営できるよう、一緒になって設立したこともあります。
 また、長野県の主要大学である信州大学の監督も務めましたが、2年生以降は学部によりキャンパスの所在地が異なるため、大学生たちが道院で修練できる環境を作るためにも、拠点づくりは非常に重要でした。先に道院を作っておかないと少林寺拳法部が増えないわけです。そうして道院ができると学生達に「道院へ行きなさい」と言えますし、その後も続ける人が出てきます。
 小学校のワークショップで少林寺拳法をしたこともあれば、保育園では、園長先生にたとえ20分でもいいから法話させてくださいと園長先生に頼み込み、その上でビラも渡し、実技もしました。その代わり、僅かでもいいから子ども達がよろこぶようにお菓子を持っていきました。
 老人ホームでは、少林寺拳法をやりたいと思ってもらえなくても、こんないいことをやっているというのをわかってもらいたいという気持ちで行きました。その人たちには孫もいるわけですし、こういったこともやってみると面白いもので、続けていくことで地元に浸透していくわけです。

音楽との共通点
 私は多趣味でその中でも音楽を嗜んでいます。昔から弦楽器が好きで、大学に入った年にはプロの先生について教わり、アルバイトして貯めたお金で、今の金額で70~80万はするギターを買いました。そして、今はアルパ(ハープの一種)をやっています。
 持論ですが、音楽と少林寺拳法には共通点がたくさんあります。スピードや精神力がいること、理を知ること、数をかけること、こつこつやること、緩急を使い分けることなどです。早いだけではいけないし、ゆっくりやることも大事です。
 それが生かされるのは、特に子どもの指導においてです。叱るばかりではなく、叱ったり褒めたりの緩急、強弱が必要です。大きい声だけで歌っていてもだめ。盛り上げていくパートもあれば、小さなパートもあります。そして、聞き入っている人がいつしか虜になっていきます。
 特に初めて見学に来た子なんかは、突き蹴りを見て怖いと思われるようですが、それをどうコントロールしていくかです。「今日、この時間、ここにきているときは、僕が君たちのお父さんだから、一緒になってやろう」と、そう言ってまずは、一緒にがんばろうという雰囲気を作ります。開祖も同じような言葉を言っていました。
 そして、修練だけではなく、暮れにはクリスマス法話会などの楽しいイベントをやります。宗教は違いますが、私がそこでハープを弾き、それに合わせて皆で「きよしこの夜」を合唱して、その後はゲームで遊びます。そのゲームは保護者の皆さんが色々考えてくれ、私が考えなくても、毎年新しいものを用意してくれています。人をうまく生かせるようにするのが道院長です。開祖は人をうまく使っていました。別の言葉でいうと、育てることがうまかったのです。
 子どもの指導においては、子どもに好かれること、子どもが好きであることが大事です。叱ったり褒めたりするのも、それは子どもが好きだからです。たぶん私が一番子どもを好きなのではないかと思っています。

平成22年度生涯スポーツ功労者表彰を受賞

平成22年度生涯スポーツ功労者表彰を受賞

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開祖の言うようにやってきた
 私は昔、体が弱かったですが、今は元気そのもので、おかげさまで膝、腰が痛むということもありません。毎日、7km程散歩をし、週4回、道院へ行っています。
 道院の修練は、人情はもちろんですが、楽しいと思わないと続かないと思います。1人1人性格も違いますが、相手に対して真剣に入っていかないといけません。ただ漠然と過ぎてしまうのではいけません。気の弱いおとなしい子には、「先生も昔はこうだったんだよ」と寄り添うことも大切です。
 過去の入門願書の控えは今でも取ってあります。たまに小学校の時に通っていた子が訪ねてきてくれるときがあります。そんな時に昔の入門時の写真を見せると、お互いに笑顔がこぼれます。
 私がこれまでやってこられたのもすべて開祖のおかげです。時には「突撃しろ」と言われたこともあります。指をくわえていても進展はありません。私は開祖の言われた通りやっているだけです。それが一番大事です。開祖の言っていることに間違いはありません。
 これからも道院長として人づくりの道に邁進していきます。

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1999年に拳士達と帰山

1999年に拳士達と帰山

2014年東北でのボランティア活動にて

2014年東北でのボランティア活動にて