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vol.49 「『は』と『と』、そう思い込んで・・・『いいね』という声が聞こえる」

2016/12/01

 その題名を「教えることは学ぶこと」だとずっと思い込んでいました。林竹二さんと灰谷健次郎さんの二人で書かれたその本の題は、実は『教えることと学ぶこと』でした。
 「は」と「と」。たった一文字の違いですが、「は」なら「教えること」と「学ぶこと」は同じこと。「と」なら、結果として結びついていることになるかもしれないけれど、「教えること」と「学ぶこと」はそれぞれ別のこと。
 元宮城教育大学の学長であった林さんと、神戸で小学校の先生をしていたことのある作家の灰谷さん。その本を読もうと思ったのは、会社勤めから教師へ転職しようとした頃です。通っていた高校と校舎を共用していた高校で、林先生が授業をしたことをほかの本で読んで知っていたこと。そんなことがあって、文庫本の『教えることと学ぶこと』という本を買ってみたのでした。
 先生には、教える内容以上に深い専門的な知識がいること。社会に出ていく生徒に語れるように、また生徒やその親が置かれた状態をすこしでも理解できるように、社会が抱える問題や課題についても知っていなければならないこと。そして、それ以上にいろんな家庭環境や個性、考え方の生徒に対しても、教育はその生徒を良くしていける、かならず良く変わると信じ、また接すること。そんなことが大切なのだと感じられ、先生になって少林寺拳法部を作ろうと考えていたわたしは、姿勢を正したのを憶えています。それまで、学校の先生というのは授業でうまく教えるのが仕事ではないかと思っていましたから。「教えることは学ぶこと」。先生は生徒を教えることを通じても自分が学び、そして絶えず学び続けることを大切にする人なのだ、と思ったのです。
 道院では易筋行の修練時、先輩が一生懸命後輩に技を教えているのが、ごくあたり前の風景。自分が強くなるだけなら、技を人に知らせる必要はないだろうに。知っていることを一生懸命教える。仕事をし、道院での指導もやり、それだけでも大変だと思うのだけれど、道場を離れても、震災や社会福祉のボランティアにかかわっている人が身近にけっこういます。元気な声で楽しそうにどんなことをしているのか話してくれるので、聞いている方も応援したくなったり、やってみたくなるのです。
 中学生拳士が、小学生に、いっしょにボランティア行こうと、話しているのが聞こえてきました。次の言葉を添えて。「役に立つようになったらね」。人に「与えること」が「喜びをもらうこと」。その思いが、順番に伝わっていきます。
 人が喜ぶことをするのは、楽しい。ありがとうと言われれば、なお一層やってよかったと思えます。未来の人のためや、遠くの見ず知らずの人の為にやることは、気づいてもらえない。喜びや感謝の声も聞こえないかもしれない。でも人に何かしてあげること。人を思いやり、人のためになることができると、不思議と「いいことしてあげた」と「いい気持」になるのは、人間(としての法)だからでしょうか。「いいね」という声が聞こえなくても、自分の心の中にある確かなもの、霊性、が「それがいい生き方だよ」と言っているようで。自己確立と自他共楽。自己確立は自他共楽。そのことを身心に浸み込ませるようと行じて来たように思います。
(文/須田 剛)