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vol.49 坂本 龍夫 大導師正範士七段 133期生

2016/11/01

開祖の教えを地域活動に生かす
高知万々道院 道院長 坂本龍夫

1938(昭和13)年8月、高知県生まれ。57年高知工業高校卒業。
入交産業株式会社入社、SPアラーム高知株式会社(後にセコム高知株式会社)を経て、自営で機械警備の会社、S企画を始める。(現在退職)
60年南国道院入門、68年南国万々道院設立(75年高知万々道院に名称変更)。
高知工業高校少林寺拳法部顧問、高知県少林寺拳法連盟理事長、本山考試委員、審判員、武道専門コース教員、本山布教委員ほか多くの役職を歴任。
2009年より名誉本山委員に就任、現在に至る。

高知万々道院 道院長 坂本龍夫

武道に励んだ青春時代
 私は小学4年生の時に相撲をはじめ、高校生の時には柔道をやっていました。高校卒業後、全国的にも珍しい、石灰と石炭を混ぜる機械を有する工場で働き始めました。その時も柔道は町道場で続けていたのですが、少林寺拳法弐段の友人に紹介され、高知大学の校庭で組演武をやっているのを見て、技の奥深さに魅了され、すぐに入門を決意しました。1960(昭和35)年の入門です。
 入門当初、週3回の修練日で150人ぐらいがいました。初段までは指導を受けながら修練し、初段允可後は、本部武専に行かなければ自身の修練は出来ない状況でした。
 そして、道院長にならないかという話があり、68年(昭和43)年12月に南国万々道院(後に高知万々道院と名称変更)を設立しました。そして、同じ月に専有道場が落成しました。

専有道場内観

専有道場内観

専有道場外観

専有道場外観

 

 

 

 

 

 

 

道場の思い出
 専有道場の建設にあたっては、父親が所有する山を売って奔走し、妻が資金作りに協力してくれるなど、家族の深い理解と温かい支援がありました。こうしてできたのが、鉄筋二階建て、二階を住居とした、一階、約五十畳の専有道場です。
 道場は水害に備えて、玄関の高さを地面よりも50cmほど高くしているのですが、一度、水浸しになったことがあります。確か70(昭和45)年の台風10号だったかと思います。幸いにして床上浸水はしなかったのですが、近所の家の雨戸が飛んできて、窓が割れ、雨が屋内に吹き込みました。家内と一緒に布で水を吸っては外に出すという作業を行ったことを覚えています。
 その時、開祖に被害状況を伝えたのですが、何と開祖から一枚の毛布と励ましの手紙が送られてきました。結局、その時の毛布は一度も使うこともなく、今も大切にしまっています。

1976(昭和51)年 鎮魂行の様子

1976(昭和51)年 鎮魂行の様子

指導の様子

指導の様子

 

 

 

 

 

 


指導で心がけていること

 道院設立当初は30人前後が、電車等で高知の各地から修練にやってきていました。ほとんどが大人で有段者でした。
 日頃の修練や武専コースの指導では、教範を基に指導しています。仏教学や宗教学も大事ですが、開祖の教え、原点である教範に書かれてあることが一番大事です。そして、技術指導の中に法話を入れます。技術だけ、教えだけのようにどちらか片方だけではだめで、やはり拳禅一如の修行法として行ずることが大事なのです。
 もう一つ、開祖の教えで私が大事にしていることは、力愛不二です。攻撃においては、外さずにしっかり狙いに行くこと。それが相手のためでもあり、そうしないと相手が上達しません。相手のために本気でやること、これが真の友情です。
 道院の修練では、乱捕りも演武も両方しっかりと指導しました。
 こんなエピソードがあります。高知万々道院の拳士の中から、日本武道館で行われた少林寺拳法連盟主催の全国大会、組演武三段以上の部で最優秀賞が出ました。大変誇らしいことですが、それ以上に誇らしいことがあります。それは、最優秀賞に輝いた岸田卓身と片岡孝雄(現 高知西道院長)の2人に、「来年からは演武に出るな、他の拳士、他の道院の拳士たちに機会を譲ってやれ」と言ったところ、2人は素直に聞き入れてくれ、また文句を言わなかったことです。少林寺拳法が単に勝ち負けや技の優劣を競うものではないことが二人にも伝わったのだと思います。

1977(昭和52)年  安和の海岸にて

1977(昭和52)年 
安和の海岸にて

1977(昭和52)年 高知万々道院九周年の行事 (創始30周年に合わせて行われた)

1977(昭和52)年
高知万々道院九周年の行事
(創始30周年に合わせて行われた)

 

 

 

 

 

 

 

自主防災会の立ち上げ
 私が道院長をしていることから、自治会の会長から防災・防犯の担当をやってほしいという依頼がありました。
 そこで、2007(平成19)年から、高知万々道院と町内会の共催で、道院を会場として開放し、第1回救命講習会を開催し、その後数年おきに開催しています。そして、13(平成25)年に防災士の資格を取得し、翌年に「南万々自主防災会」を立ち上げました。
 また、地域の方が、道院に入りやすいように、卓球台を置いて、いつでも入ってきていいよと言って、地域に道院を開放しています。

防災に生かす開祖の教え
 特に高知県では南海トラフ大地震が政府の30年以内の予測73%(2016年1月1日時点の確立)となっており、2016年4月放送のNHKスペシャルの特番では、「発生を早める要因が浮かび上がってきた」などの情報もあります。地下(マントル)、海底、陸上の動きがデータの分析から刻々と判明し、新しい情報が得られる時代になりました。
 しかし、まだ予知、予測共に不明な時代だとの認識に立てば、いつ起きてもおかしくない状態です。これに備えることは究極の護身術と言っても過言ではありません。起きてから対処するのではなく、起きる前に手を打って防災(減災)の手段を講じる。これは、「気の先」と言えます。

肝に銘じたい。「不意の地震に不断の用意」(1923年関東大震災10年後の標語)
 私は、開祖の教えは、中国(満州)での体験から、「事実と真実(真理)は現場にあり」という考えが根底にあると思っています。南万々自主防災会は340世帯が対象です。回覧で連絡事項を回すのではなく、自ら地図を持って、1軒1軒回って話を聞き、信頼関係を築き上げていきました。家族構成やどんな人が住んでいるかを知り、つながりができていることがいざという時に役立つことになります。現場が見えていないとその時に、見誤ってしまいます。
 これは持論ですが、技術の「術」は「行」と「朮」からできています。「行」は開祖が言うように、「強い人が弱い人を背負って向かい合っている姿」を表し、「朮」は「記述」や「意見を述べる」という字に使われるように、コミュニケ―ションと解釈しています。技術を生かすには「行」と「コミュニケーション」が必須であり、それが日頃の防災活動に生きています。
 そして、いざ災害となれば、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを」の教えがそっくりそのまま生きてきます。被災時には、逃げることが大事ですが、自分さえよければ善いというものではありません。まずは自分の命が守れるようにする。自分が助からなければ他人を助けられません。自分が怪我をしなければ他人を救うことができます。自己確立、自他共楽が一体となっていることが大事です。

2011(平成23)年 新春法会

2011(平成23)年 新春法会

まだまだこれから
 開祖の凄いところたくさんありますが、その内の魅力の一つはきれいごとばかりを言わないことでした。これなら自分にもできそうと思わせてくれるところです。「メッキはメッキでもはげないメッキになれ」これなんかはまさにそうです。
 おかげさまで私は今までに大きな病気や怪我はほとんどありません。何年か後には80歳になりますが、後進の方々に80過ぎてもこれだけのことができるんだと思ってもらえるよう、これからも皆と共に修練をし、人づくりに励んでいく所存です。

2014(平成26)年 勤続45周年の本山新春法会、節子夫人と

2014(平成26)年
勤続45周年の本山新春法会、節子夫人と