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vol.51 佐藤 健二 中法師大範士八段 198期生

2017/03/01

人を育てることで開祖の教えを実感
福岡西道院 道院長 佐藤健二

1944(昭和19)年6月、福岡県北九州市生まれ。67年九州産業大学卒業。卒業後、包装製造会社での勤務を経て、68年に福岡県警察官を拝命。以来2004(平成16)年迄警察官として働く。
1964(昭和39)年北九州道院(現福岡北道院)に入門。69年福岡西道院設立。本山運営指導委員会委員長、本山考試員、本山審判委員、WSKO指導員など数多くの役職を歴任した。現在、名誉本山委員、UNITY国際運営指導委員長、国際指導員等を務める。

福岡西道院 道院長 佐藤健二

人生の大転機
 私は、小学生の頃は野球をし、中学1年生で柔道部に入り、高校1年生までの4年間は柔道をやっていました。体も大きかったので、すぐに選手になって学校対抗試合の選手としても活躍しました。大学の進学にあたっては、絵が得意だったこともあり、大阪にある芸術大学を志望していましたが、親父からはお金が高くて出せないと言われ、地元の大学に進学しました。
 そして、大学2年生のある時に、書店で宗道臣著『秘伝少林寺拳法』(カッパブックス)に出会いました。これで少林寺拳法を知ったことが私の人生の大転機でした。これは凄いと思いました。特に考え方に共鳴しました。自分が思っていたことをまさに言わんとしているようで、本当に素晴らしいと思いました。
 その後、少林寺拳法を探し回りましたが、すぐには見つかりませんでした。半年ぐらい経った頃に、新聞の催し物欄で警察の武道場で公開演武があることを知りました。そしていざ行ってみますと、道場の半分の柔道場には観客が座り、もう半分の剣道場で演武をやっていました。そこでは、中村秋尚道院長(北九州道院 現福岡北道院)が短刀捕の演武をやって、演武中に弾かれた短刀が床に突き刺さり、あまりのすさまじさに観客の高齢者が救急車で運ばれていきました。柔道をしていた私としては、板張りの上に相手を投げつけ、さらには背負い投げに対して転回して立ち上がることに驚き、本当に凄いと思いました。あまりに凄くて、すぐに入門させてくださいとは言えませんでした。
 それから家に帰ってもう一度『秘伝少林寺拳法』を読んで、やはり少林寺拳法をやりたいと思いました。道場を探すにあたって、公開演武の時、演武者が胴やグローブを着けていたことを思い出し、武道具屋さんを尋ね、やっている場所を教えてもらいました。
 8月初めの暑い時期でした。商店街を通って行ったら、気合が聞こえてきましたので、お寺の境内を覗いてみますと、上半身裸で帯を締めた男たちが修練していました。今思うと天地拳をやっていたのだと思います。
 一旦休憩に入ったところを見計らって声を掛けたところ、その週は先生が道院長研修会で本山にいっているため不在でした。翌週にもう一度行って、中村秋尚道院長にお会いしたところ、月末入門だからと最初は断られました。「すぐにでも入りたいのです」「そういう奴はすぐに辞める」「いいや私は大丈夫です」と押し問答となりましたが、お盆過ぎたころから練習に入り、入門を許されました。
 入門してすぐに中村道院長の技法、人柄、誠実さ、情熱に心酔しました。中村道院長は「拳友」という機関紙を出したり、少林寺拳法の基礎という冊子を作って、入門者に渡して指導したり、全国の道院長の顔写真を集めた冊子を作ったりと、とても行動力のある人でした。誠実で正義感の強い人柄に強く影響を受けたものです。
 入門してしばらく経った頃、道場長に逆技で投げられた後に裏固めを掛けられ、その痛さと身動きできない悔しさで涙が出たこともありました。しかし、今に至るまで私はスランプになったことは一度もありません。常に面白い、楽しいと感じて今でも続けています。   

開祖との出会い
 開祖はよく九州を訪れていました。中村道院長は18歳から道院をやっていましたし、若い道院長を気にかけていてくれたのだと思います。よく大会等、折に触れ顔をみせてくれていました。
 私が開祖と初めて出会った時は、開祖の髭もまだ黒かったと記憶しています。ある時中村道院長等と小倉のプラットフォームに出迎えに行った時でした。ベレー帽をかぶった体の大きな人が電車を降りてきて、はじめは合掌礼をするのも忘れてあっけにとられたことがあります。
 また、戸畑にある企業の幹部用クラブに昼食を食べにいきましたが、暑がりだった開祖は上半身裸になっていました。へその横にへそよりも深い穴が空いていたのを見つけ、あ、これが『秘伝少林寺拳法』に書いてあったものかと思い、開祖に「あの時に刺された傷ですか」と尋ねたところ、「おう」と答え、「人に誇れるもんじゃないけどな」と言っていたことがありました。

福岡西道院の設立
 大学卒業後は包装製造会社の貿易部に就職しました。ESSにもいて英語も得意でしたので、仕事は面白く、楽しくやっていました。しかし、終業時間が遅く、福岡大学少林寺拳法部(当時は愛好会)の監督もしていましたので、このままでよいのだろうかと考えました。好きな英語を使って仕事をしているけれども、少林寺拳法とどちらをとるかで、やはり少林寺拳法を選んだのです。そして、少林寺拳法を続けるためには公務員が良いだろうと考えました。思い立った時期は、すでに県や市の行政職の募集が終わっていましたので、夏に警察官を受験しました。当時、警察官受験者には、身上調査が行われていましたので、秋頃、会社に調査の方が来られました。職場には言わずにこっそり受験していましたし、またゼミの先生の紹介で就職していましたので、「一体どういうつもりだ」と怒られましたね。(笑)
 そうして翌年の2月いっぱいまで働き、4月に福岡県警察官を拝命しました。勤務地は道院のある北九州市を希望していましたが、福岡市になりました。勤務開始後、福岡市から通うのを、中村道院長が気の毒がり、福岡市で道院を出したらどうかと言われましたが、自分が道院長になることは考えてもいませんでした。まだ学びたいと思っていましたが、「学びながらやれ。君が100%学び終えるのは何年後、何歳の時だ。50歳、60歳になったらできるのか。それでは広がっていかない。学びながら教えればいい」そのように言われ、道院長をやることになりました。そして1969(昭和44)年に福岡西道院が誕生しました。
 開祖とは、それまでに何度か九州に来られ顔を合わせていましたが、新設の道院長資格認定研修会の時に、初めて声を掛けていただきました。「福岡は自分の祖父の里なので、しっかり頑張れ、仲間をたくさんつくれ」と握手してもらい、大きな柔らかい手であったことがとても印象的でした。

青年時代1969(昭和44)年

草創期の苦労
 設立当初は大学生、高校生、警察官などの青年層のみとして、修練は大学の体育会系にも勝る厳しい修練を行っていました。修練場所は警察の武道場を借りて行っていましたが、わずか数か月で使用できなくなり、その後、公園や海岸など場所を転々としました。11月から2月の寒い時期には、海岸の防波堤で、風が吹きっさらしの中、釣り用のカーバイドやバイクのライトを明かり代わりに修練を行ったこともあります。その後道院を幹部として支えてくれた拳士達はこの時代に入門した者達でした。
 大変な苦労ではありましたが、私自身、この道と決めたことに、打ち込んできましたので、楽しかったですね。
 そうして、1978(昭和53)年に60畳の専有道場を建てることができました。そして翌年に幼稚園に通う息子拓磨が入門したのをきっかけに、青年層ばかりの道院にも子どもの姿が見られるようになりました。

1976年8月夏季合宿、多い時は春と秋の2回実施、企画運営はすべて大学生の自主性に任せた

認知度ゼロからのスタート
 当時の福岡での少林寺拳法の認知度はゼロに等しく、あらゆる機会を通じて、布教を行いました。布教の主な方法は春と秋の公開演武会であり、これにより認知度を高めていきました。特に福岡は尚武の地で、柔道、剣道、空手も強く、質実剛健の風潮がありました。
 いきなり話をしても興味を持ってくれませんので、きっかけとして、演武をやって見せます。大人だけでなく少年部にさせることもありました。1組、2組やって見せて、十分に惹きつけたところで、組手主体というのがいかに私たちの思想を表しているかという話をしました。相手と向き合うことは、単なる勝ち負けの世界ではなく、相手の息吹、生命を感じ取ることです。強い身心を作り、互いの命が励まし合いながら鍛錬することで、「半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを」の教えが組手主体の修練の中に活かされてきます。このように機会を捉えて演武を見せ、話をするということやってきました。とにかく存在を知らしめたいという思いでした。

1976年の写真(開設7周年記念写真集から)

私の指導法
 道院の修練形態、指導方法も三段、四段が増えてくるとある程度の形が整ってきました。福岡西道院では全部、何時から何時まで何をするかというのが決まっています。誰が主座に立っても同じようにできます。道院の幹部には幹部必携として指導要綱を渡して、指導方法の徹底を図っています。近隣の先生からは、「まるで学校のようですね」と言われるぐらいです。パターンは決まっていて、一部マイナーチェンジはありますが、基本的には今も変わりません。
 福岡西道院では、昇級試験を受けさせる前には必ず仮試験を行います。特に少年部の場合には親を来させています。その理由は親には自分の子が成長する過程を見て欲しいからです。親は少林寺拳法の技のことはわからなくても、子どもができるようになったこと、できないことはわかってくれます。それを見てもらったら、家庭で叱咤激励ができます。「今日はよく頑張った」「もっと元気よくやろうね」と言う話になります。そうすると、親や兄弟、親族にまで伝わり、いい口コミとなって、さらに入門者が増えます。
 また、法話については年代を分けて話をします。全員一緒に行うと、話を小学生に合わせなくてはなりませんし、そうすると中高生は退屈していまいます。そのため、幹部が小学生を見ている間に、中高生を事務所に入れて話すようにしています。
 特に中学生以上は言葉の理解も発達し、頭もやわらかく一番変わりやすい時期ですので、この時期に教えを説くことが大事です。

老人ホーム訪問で歌を披露する道院の子ども達(毎年5月実施)2009年5月

近くを流れる川の清掃

退職後の生活
 私は多趣味です。特に影響が強いのはアメリカへの憧れです。私が育った1950~60年代は第二次世界大戦が終わって、アメリカの文化がどっと流れてきた時代です。映画、音楽、スポーツ、色んなものに憧れました。12歳上の兄が英文科卒で、兄の影響で英語を勉強し始めました。兄はアメリカの雑誌を買って来てくれたり、洋画を見に映画館に連れて行ってくれたりしました。また、中学校から授業で英語を学び始めましたが、その時の先生が、褒めるのがとても上手でした。予習していったら、よく褒めてくれました。先生が非常に良くて、高校生になった時にできたばかりの英検を取りましたし、福岡県警では通訳人に指定されました。
 また、アウトドアスポーツも好きです。福岡西道院出身の平山勝也アメリカ少林寺拳法連盟会長から、アメリカ人は春から夏はサーフィンやテニス、ゴルフなどのアウトドアスポーツに打ち込むということを聞きました。私はそれまで少林寺拳法一筋でしたが、それを聞いた時、それも良いなと思い、県警のテニスクラブにも入りましたし、40過ぎて機動捜査隊に入った時には、若い後輩がヨットをやっていたことを聞き、ヨットクラブにも入りました。モーターを使わず、風と波で、一人で漕ぐディンギーと言う種類です。非常に難しいですが、自然の中で何にも煩わされず風と波を相手にするのは大変気持ちがよいものです。
 退職後の今は、時期にもよりますが月に2回のウエスタンスタイルの乗馬やカントリーダンスも習っています。退職して今までやれなかった若い頃の夢が今できるようになっています。もちろん少林寺拳法のことも、教えや技、1つ1つ振り返り考えるようになりました。時間はいくらあっても足りないぐらいですが、充実して楽しく日々を生きています。

駐日本ドイツ連邦共和国フォルカー・シュタンツェル大使より友好感謝状を授与される2011年10月19日(於:ドイツ大使館)

弘子夫人と

日独友好賞を授与される
 現在は、福岡県内における認知度もさることながら道院も増え、福岡西道院からも道院長や部長、アメリカ、ドイツで支部長をする者まで輩出することになり、国内外でたくさんの指導者が育ちました。このことは私にとって大変喜ばしいことです。
 特にドイツ少林寺拳法連盟との長年の交流から、2011年にドイツ大使館において、日独友好感謝状を授与されました。これは私個人の栄誉というよりも少林寺拳法そのものが広く社会に認知されるようになったものと思っています。

ドイツ少林寺拳法連盟30周年講習会ヨーロッパ各国から指導者が集まる2009年6月ドイツ・アウグスブルク市


開祖の教え

 開祖のお話はとにかく長かったですね。ある時、3時間ぐらいお話しされ、一旦、礼をして終わった後、足が痺れたなと思っていると、開祖が戻って来られ、「ひとつ言い忘れたことがある」といって、そこからまた30分、40分お話しされたこともあります。当時、開祖は講堂のステージの上からお話され、私たちは椅子もなく見上げる姿勢になるので、終わるころには首が痛くなりました。それでも開祖のお話は具体的で面白いし、わかりやすかったですね。そのおかげで、3時間お話しされても飽きずに聞くことができました。その当時の政治や世界の流れをもとにお話をされていたので、大変勉強もされていたのだと思います。博識で断然説得力がありましたね。
 今は開祖を知らない道院長も増えています。この道を進む上では開祖の声を聞き、息吹を感じることができたというのは、幸せな時期に始められたなと思っています。
 開祖はよく、「上にも下にも横にも綾糸のような人間関係を作りなさい。そうすれば幸せになれる、自分の人生が豊かになる」と仰っていました。
 警察の同期で一番の出世頭だった者も辞めた途端、道ですれ違っても挨拶もされなくなります。やはりそこは階級社会であり、人間関係でつながる世界ではありません。そう思うと私はありがたいと感じます。幸いにして私は道院長をさせてもらうことでたくさんの縁に囲まれています。数十年経った今、私はすごく幸せです。開祖の言われていたのはこういうことだったんだなと実感しています。
 70歳を過ぎて、小中学生、高校生、大学生も来ていますが、皆話を聞いてくれます。
 金剛禅の教えは開祖が見たという白衣殿の壁画が原点です。道院には色んな人が来ます。子どもから大人、会社員や年金生活者もここにくれば別世界です。こういった得難い関係を作る空間が道院です。そして、そこには祭壇のある雰囲気が大事で、人を薫習できるのはやはり専有道場です。
 道院長は自信と勇気と行動力が必要です。心を燃やし自らが走らないといけません。私が歩みを止めたら皆が止まります。だから私は先を走ってきました。それも嫌々ではなく、楽しみながらやっていたから続いたのです。
 少林寺拳法は今年70周年を迎えましたが、私もまだまだ走っていきますので、これからも、組織がいつまでも続いてほしいと願っています。

2010年7月25日本山帰山

日々の修練の様子