vol.52 強く生きるということは・・・負けないことではなくて

2017/06/01

 「『強く生きるということは 決して負けないことではなくて 誰のせいにもしないこと.言い訳しないで生きること.』(ボンボヤージュ「ちびギャラ」)これいいでしょ」というので、インターネットで検索すると、どういうわけか作者より関ジャニ∞の名前が出てきました。けっこう若い人が共感しているのかな・・・。
 うまくいかない事、負けたなと思うことを、ごまかさず、他人のせいにせず、再起のために努力する、それしかないぞ、と自分を励ます言葉、それとも、暗に、押しつぶされ負けてしまいそうなこの世の中、誰かが何とかしてくれるなんて思えないぞという社会にむけた言葉だろうか。
 似たような言葉が頭に浮かびます。自分の行い、思いや言葉や行動-身口意の三業-の結果はかならず自分に返ってくるので、自分の行いのすべてについて責任を取らなければならない、自業自得、因果応報の思想。だから祖先の祟りや前世の因縁でもなく、神によるものでも世間の信賞必罰といった他律的なものではなく、あくまでも自らのうちに完結するという自己責任倫理。これは仏教の教えでしたか。
 でも、「自己責任」という言葉が、自分の行いに対して用いられるのと、他人の行いに対して用いられるのでは、意味が違ってくるように感じます。自分の行いに対していう場合は、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教(すべてあしきことをなさず、善きことを行い、自らの心を清めること、これがもろもろの仏の教えである。)」自分の生き方を正す教えであり、現実には財産を増やし楽に生きている悪い人がいるのは知っているけれど、その教えを信じてそう生きることが正しい生き方だと考えているということでしょう。
 自分の言動が、本人はもとより社会や周囲の人々に影響するという「当事者としての責任」を自覚せず、他人に対して「自己責任だから」と言いうとき、それはあたかも、「お前が悪いから私は知らん、私には責任がない」と言っているようで、それは「自己無責任」「他者責任」論になってしまいがちです。
 ましてや、そのことに決済できる立場、決定権者に意見や策を述べることができる立場、連絡調整ができる立場、決定への雰囲気をつくる立場にあるとき、つまりなにがしかのできることがある人がしなかったり、ほかに押し付けたり、知らないと言ったり、上が決めたことだからと言うことは、自己責任倫理とはちょっとかけ離れているように感じます。そうだから自業自得、因果応報の思想は、一神教の神の懲罰に劣らず、いやそれ以上に厳しい倫理と言われるのでしょう。
 犠牲者300万人以上を出した戦争体験の中から、開祖を含め、多くの人々が、これは変わらなければならないと考えた、日本の組織の「権限と責任が乖離(かいり)した権力構造」、責任が曖昧になる組織構造と思想風土が、あの3・11後の原発事故を巡る東電や政府の迷走ぶりに、今日も変わることなく存在するという指摘があります。あの戦争における仏教教団の行いをあわせて考える時、釈尊の正しい教えを現代に生かすとした立宗の意義を感じるのです。
(文/須田 剛)