vol.58 真理とは、ゆるぎないもの

2018/05/01

 自分はどこから来て、どこに行くのか、この世界はなぜあるのか、宇宙はなぜ存在するのか、そもそも、我とは何者なのか、これらの答えのない問いに対して、人間は、知りたいと思い、探求しようとする。
 これは、人間に与えられた能力であり、真理を探求しようとする宿命と言える。
 これまでも現在も、天才科学者達は探求心による小さな気づきを見逃さず、偉大な発見をし、それを証明してきた。
 その一人であるアイザック・ニュートンは、りんごの実が木から落ちるのを見て万有引力の法則を発見した。有名な話である。
 この時代、ロンドンではペストが流行し、大学は閉鎖、ニュートンは故郷に帰らざるをえなかった。故郷の農場で、その時、木からりんごの実が落ちたのである。凡人は、ここで何も閃かない。歌人なら歌を詠むのか。
 しかし、ニュートンは、りんごは木から落ちるのに、月は落ちないのはなぜかと考えた。木から離れたりんごと空に浮かぶ月との違いは何か。リンゴは目の前で落ちてきた。月は悠久より空に浮いて落ちてこない。その違いは何なのか。そこで閃きがあった。
 紐の先に重りをつけて回すと、重りは自分を中心にくるくる回る。力をかけて早く回すと遠心力により紐の張力は増し、持つ手にかかる力も大きくなるが、この原理と月が落ちない原理は同じであり、地球の重力と月が回っている遠心力が釣り合っているから落ちてこないし離れる事もない。
 今は解っていることでも、それを初めて思いつき発見するには、純粋な思考と閃きが必要であり、これこそ天才と言える。
 おそらく、全ての事象には理がある。この全てを理解する必要はないが、そういう理があると言うことを踏まえて考えを進める事は重要だと言える。
 理の裏付けが無く、概念ばかりで人を導くと感情が先行し行き詰まるか、妄信的集団となる。全てが今の科学で証明できないが、その事実を踏まえて考えを進め、教えを垂れることは現代社会では重要であると考える。
 少林寺拳法の技術も然りで、原理原則の上に成立すると言うことは周知の事であり、これを見失うと行き詰まり、今ある事の理までも否定し、自己展開に陥る。
 理論に裏づけされた技術は、再現性があり、積み重ねにより、研ぎ澄まされる。
 科学者の直感による閃きと同様と言える。
 技術(易筋行)と、教え(教典)は一如である。
 鎮魂行で、目的を明確にし、それを日々反芻して、自らの指針とし、理をふまえた易筋行の積み重ねにより、迷信や妄信に陥らない精神力を養う。そして、それらをつなぎ止めるものは、日々の法話(話した事の責任と実践)、教えを垂れて人を導く事である。それには、心を至して道に向かう事が重要となる。
 我々は、理想境を追求し、有言実行する事が信条ではないだろうか。それには人間としての質の向上は不可欠となる。
 仁・義・忠・孝・礼を尽くす生き方は、たやすくはないがこの道が本道。
 ニュートンの発見には、遡ること約三十年、先駆者であるガリレオ・ガリレイは「それでも地球は動く」とつぶやき、信念を通した。それは真理の裏づけがあったからである。
(文/松本 好史)