第1回 それは悲劇から始まった

2019/08/13

20194月、少林寺拳法の介護事業がスタート。「少林寺拳法で介護ができる」介護技術の生みの親である根津良幸氏にコラムを執筆していただくことになりました。
少林寺拳法の技法・理法からこの介護技術が編み出された誕生秘話や根津良幸氏と対談、鼎談(ていだん)を掲載する予定です。

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それは悲劇から始まった

なぜ、この介護技術が誕生したのか。それはある日突然訪れた悲劇から始まりました。

今から十数年前の30代後半に私は脳梗塞で倒れました。朝起きるとその日、異常なめまいと耳鳴り、今まで経験したことのない頭痛に襲われ2階のリビングに上がると目の前が真っ赤になり、その瞬間意識を失いその場で倒れてしまいました。すぐに妻が119番に通報し、緊急搬送を依頼し、病院のICUに担ぎ込まれました。私は3日間、意識不明の重体になりました。

いったい自分の身に何が起きた?

3日後に意識を取り戻しましたが、自分がどこにいるのか今自分がいる場所の認識ができず、何があったのかを思い出そうとしても全く思い出すことができずにいました。そして自分自身の左側半身に異常なしびれがあり、まったく動かすことができないことに気づき、もしかして「何か大きな事故に遭ったのか」、あるいは「交通事故にでも遭ったのか」と考えましたが、必死に思い出そうとしても、まったく思い出すことができませんでした。

 しばらくして私は左側半身があまりにしびれているため、左足が切断されているのではないかと思い、体にかかっている毛布を右手で取って自分の足を確認しようとしたところ、右手にまったくチカラが入らず、毛布を持ち上げることすら、また身動きすらとることができませんでした。左側半身がまるで麻酔にでもかかっているような、まったく感覚のない状態であったため、自分の身体にいったい何が起きたのか大きな不安にかられているときに、看護師が私のもとに飛んできて「根津さん、3日間昏睡状態だったんですよ。今、医師を呼んできます」と言われました。

医師に言われた衝撃の一言

 そして医師がこられると、私の瞳孔を調べ、私の胸に聴診器をあて、「根津さん、病名は脳梗塞です。今の状態をまず受け入れるところから始めましょう。一番大切なことは自分自身が受け入れることです。そして車いすに座れるようになりましょう。」と言われました。その瞬間、私は頭の中が真っ白になり、この先自分はどうなるのか、一生車いすでの生活を送らなければならないのか……30代後半で脳梗塞を起こしてしまった私にはこの先のことも考えることすらできない状態でした。

私を待っていたのは過酷な現実だった

 当時、私たち夫婦には子供が生まれたばかりでした。私の妻は重度のヘルニアを患っており、通常分娩では子供を産むことすらできず、一時は子供を諦めなければならないと医師に言われたこともありました。また私の母は重度の介護状態であり、妻の母も祖母の介護をしなければならず、私たち家族は誰にも頼ることができない状況でした。そのためヘルニアの妻が生まれたばかりの赤ん坊の面倒を見ながら、私の介護をしなければならない過酷な状態でした。

 そんな私たち家族は、自分たちの命を守る術として、力に頼らず介護する方法を編み出していくことになるのです。

職員への研修の様子(右は筆者)

 

根津良幸氏プロフィール

1996年に社会福祉法人を設立。特別養護老人ホーム統括施設長、デイサービスセンター長、グループホーム統括施設長に就任する。

また、介護認定審査会委員、老人福祉施設連絡協議会会長、高齢者虐待防止委員会委員を歴任。現在、株式会社 One to One 福祉教育学院代表取締役として活動しながら埼玉医科大学の客員教授として講義・指導を行う。

そして、自身が脳梗塞に倒れ、年間で介護~要支援段階を体験し、介護・リハビリ生活を送った中から自分たち家族が生きるための術すべとして家族のために編み出した「片腕一本でできるまったく腰に負担のかからない介護テクニック」を腰痛で悩む介護現場職員や介護を必要とする家族のためにこの術を公開し始め、年間 5,000名を超える日本一受けたい講座の講師として活躍中である。

また、埼玉医科大学において1・2年生の必修科目として「【地域・介護医療】地域医療と介護の連携」「【ラポール形成】患者・家族・医師との信頼関係」や3年生の必須科目「行動科学と医療倫理」の講義や埼玉医科大学国際医療センターにて新任ドクターに対してコミュニケーションの講義・指導を行っている。